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2012年1月16日月曜日

選挙と「市場」

今年は「選挙の年」だそうだ。台湾、ロシア、イラン、フランス、パレスチナ、メキシコ、そしてアメリカ合州国と政権に関わる選挙があるという。


その先陣を切って台湾で総統と立法院の選挙があった。予想されたように国民党が得票を減らしながらも馬英九政権と議会多数を維持した。独立指向が強い民主進歩党は、善戦し第2党の地歩を固めた。中米両国政府はほっとしているという。


民進党が得票を増やしたのは、馬英九政権が結んだ本土との「経済協力枠組み協定」のもとで進んだ経済格差への反発によるとの見方が有力なようだ。また、今度の選挙では台湾の有力企業が国民党支持を明らかにしたが、これはかつてなかったことだという。


こんな報道を見ていると、この国民党vs.民進党対決の背景にあったのは、米中両国政府などではなく、いわゆる「市場」だったのではないかと思ってしまう。選挙という民主政治の制度のはたらきが「市場」によって大きく影響されているのではないか。こんな仮説をもってこれからの選挙を見ていきたい。


2012年1月5日木曜日

二つの中間報告はワンセット?

いただいた年賀状の多くには「明けましておめでとうございます」とある。しかし、2万人もの方が亡くなり、広範な地域の生活が破壊され、今でも30数万人の方が避難生活を余儀なくされている。そして原発事故は新たな放射線汚染時代を開いた。素直に新年を祝う気にはなかなかなれない。

この国のマスコミは、暮れから正月にかけては「めでたい明るい話題」で覆われる。それを狙ってか原発の今後にかかわる二つの大事な中間報告が暮れに出された。12月26日に出された政府の「東電福島原発事故調査・検証委員会 」(委員長・畑村洋太郎東京大学名誉教授)の「中間報告」*と、翌27日の内閣府「南海トラフの巨大地震モデル検討会」による「中間とりまとめ報告」だ。

前者は、「事故の原因及び事故による被害の原因を究明するための 調査・検証を、国民の目線に立って開かれた中立的な立場から多角的に行い、被害の拡大防止及び同種事故の再発防止等に関する政策提言を行うことを目的として」設けられた委員会によるもの 。シビアアクシデントへの東電の対応や政府の情報連絡・対応の問題などを指摘していることからだろうか、各紙は概して好意的だ**。

* 本文
**「毎日新聞」社説
http://blog.livedoor.jp/ryoma307/archives/5610182.html
しかし、多角的な調査・検証を標榜しながら、各方面から指摘されている地震による配管破断については判断を見送っている。
原発設計技師であった田中三彦さんは、水位と圧力の生データでシミュレートされる冷却水喪失スピードから地震による配管破断・冷却水喪失を推定しており*、かの保安院も「配管の損傷の可能性」を認めていた**。津波による全電源喪失の前に既に原発は損傷していたとなれば、「津波対策をすれば大丈夫」キャンペーンはすっ飛び、定期検査後の運転再開の可能性は著しく少なくなる。
* 田中三彦「原発で何が起きたのか」(石橋克彦編『原発を終わらせる』岩波新書1315, 2011年 所収)、同「福島第一原発1号機事故・東電シミュレーション解析批判と、地震動による冷却材喪失事故の可能性の検討」『科学』2011年9月号所収。
** 東京新聞12月15日「福島1号機配管 地震で亀裂の可能性」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011121502000029.html

なぜ中間報告から地震による配管損傷の検討は省かれたのか。既に中間報告の1週間前、「共同」配信で「中間報告では地震の影響について踏み込んだ判断を見送ることが19日分かった」との報道*があった。中間報告は、圧力容器と格納容器についていずれも「損傷を窺わせるような形跡は把握されていない」としている。
* http://www.47news.jp/CN/201112/CN2011121901001241.html

善意に解すれば、損傷を確かめられるデータ不足のため判断を先送りしたと取れないでもない。しかし、一方で水位と圧力の変化の事実から破断を予測する見解があるのだ。「国民の目線に立って開かれた中立的な立場から多角的に行」うというのであれば、この見解に真正面から答えなくてはなるまい。大地震はこの夏に予定されている最終報告の前に起こるかもしれない。「同種事故の再発防止等に関する政策提言を行う」ことが、次の大地震による原発損傷事故の後になることは許されない筈だ。

どうやらこの「事故調査・検証委員会」は、同じ時期に予定されていた「南海トラフの巨大地震モデル検討会」の中間とりまとめ報告との関係を予め考慮していたのではないかと思われる。後者の報告は、東海・東南海・南海で予想される巨大地震の想定について、従来の想定の震源域を何と2倍程度に広げているのだ。原発続行・推進派としては、こんな報告が出るタイミングで地震による配管損傷の可能性に触れてほしくはない。「事故調査・検証委員会」中間報告からの地震による配管損傷の検討先送りは、データ不足によるものではなく、続行・推進派の圧力によるものだと見て間違いはないだろう。

中間報告の要旨
中間報告・本文
ビジュアルな解説:


2012年1月2日月曜日

新年




無事に新年を迎えることができた。新年を迎えるとは単に自分が生きている地球が太陽周回軌道を一周したという宇宙史的時間の一つの区切りたる「一年」の経過を経験したということだけでなく、生命体である自分がこの「一年」という自然史の中で生き延びたことでもあるのだ等と、いささか面倒くさいことを感じている。昔の人が「年取り」という言葉に込めた意味合いを考えてしまう。

何人もの方から年賀状をいただいた。年に一度だけの挨拶でもして下さることはありがたいことだと思う。

昨年は多重巨大災害があり、少なくとも日本社会が大きな曲がり角を曲がったと思われた年だった。賀状でこのことをどのように触れているかは実にまちまちで、そのことは元号使用以上に興味深かかった。

今年初めて飲んだ酒は、相模原・久保田酒造の「本醸造・相模灘」である。生原酒とありこの時期限定販売、アルコール度19度、こくがあった。
http://www.tsukui.ne.jp/kubota/syouhin.html



年賀状には次のように書いた:

昨年は、自然史的必然への無智、近代科学の限界、現在の社会システムの犯罪性について改めて考えさせられました。多くの人々にふりかかった苦悩と悲哀を前にしての、この国のエリートたちの保身と傲慢、諸学界の堕落ぶりには怒りを通り越して呆れはてるばかりでした。退職を前にしてのルンルン気分も吹き飛び、自らの来し方を顧みながら、今という時代は一体どういう時代なのかをあれこれ考えています。
 今年からは、「明日できることは明日しよう」をモットーに溜め込んできたものを片付け・捨てまくり、この大変な時代に自らの第三の人生を重ね合わせていく準備をしようと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 皆さまのご健康とご多幸をお祈りいたします。

2011年12月4日日曜日

野菜とトリもも肉の蒸し煮込み

準備に10〜15分、調理に20〜30分の超簡単一皿料理。
野菜に肉の旨味がしみわたり、実においしさを増した野菜をたっぷり食べることができる。以前に見た豚を使ったレシピからの応用。この料理では肉は出汁の役割を果たす。豚肉だと仕上がったときにはどうしても肉の旨味が殆ど出てしまい、出し殻の肉を味わうことになる。同じトリ肉でも胸肉を使うと、同じく出来上がりはパサついてしまう。どうやらモモ肉が良いようだ。

材料:トリもも肉 1枚
キャベツ 500〜600g
人参   100〜150g
玉ねぎ  100〜150g
油;塩、胡椒  少々

1.<準備>キャベツを指幅(1.5〜2.0cm)位の帯状(*1)に、
人参はこれより少し幅の狭い短冊に切り、
玉ねぎは0.5〜1.0cm厚位にスライスする。
肉には塩・胡椒しておく。
2.ピッタリと蓋のできる、鍋(できたら厚手の)に油(*2)をひき、
中火で人参、次いでキャベツを固そうなところから順次入れてしんなりさせる。
3.野菜がしんなりして平らにできるようになったら、その上にトリ肉をしく。
(好みで、ローリエ月桂樹の葉を1枚)
更に玉ねぎをしきつめ、蓋をして蒸し煮にする。
4.時折、野菜を混ぜ合わせ、満遍なく柔らかくする。野菜からは水分が出て、肉から出た旨味が野菜にしみわたる。野菜が柔らかくなり、肉に串を刺しても赤い肉汁が出なくなったらできあがり。塩・胡椒で味を整える。<ここまでが蒸し煮>
5.野菜を更に煮込みたかったら、トリ肉を一旦、取り出して野菜だけを弱火で煮込む。30分も煮込むと、野菜はトロトロになる(これを称して煮込みという)。
6.碗状の食器が食べやすい。まず、野菜を取り分け、その上に適当な厚さにスライスしたとり肉をおく。

*1 キャベツの「主脈」部分は、上記5まで煮込めばおいしくなる。しかし、早く食べたいときには、1で取り除いた方がよいかもしれない。中間策としては「主脈」の中央で切り分ける。
*2 油は、料理用の植物油、バター、トリ肉の皮裏の脂など好みで良い。


2011年11月30日水曜日

ため息ばかり

大阪のダブル選挙には今更ながらにため息が出た。
これが現実なのだから嫌でもそのよって来たる所以を考えなくてはならないのだろう。

疲れるなぁと思っていると、昨今の皇室騒ぎで秋篠宮とかが、「いわゆる皇室の制度については、皇室典範があります。制度論については、これは国会の論議に委ねることになるわけで、私が何か言うということではありませんけれども、その過程において、今後の皇室の在り方を考えるときには、何らか、私若しくは皇太子殿下の意見を聞いてもらうことがあって良いと思っております」と語ったとの報道があった*。

何様だと思っているのだろう。憲法の規定がなくても自分たちはやっていけると思っているのだろうか。憲法も随分にコケにされたものである。面倒なのは、彼の意見がおそらくは天皇制度擁護派の中でも「開けた」ものであることが多いことだ。そうだとしても、現憲法上は、皇太子なり何とかの宮なりが、皇室制度の在り方を国会が決める過程で意見をいう立場にあるということはできまい。こんな発言がしゃーしゃーと記者会見で述べられ、それが流されることにまた溜め息。

* http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/20111129-OYT8T00783.htm?from=yoltop




2011年11月21日月曜日

疲れる

親しい同僚がひどく疲れた顔をしていた。尋ねると、卒論を指導している学生から一時帰郷すると聞かされたという。身近で不幸があったためではない。3月になってからでは就職後に着るスーツを買う時間が取れないので、今のうちに買いたいので親元に帰ると言うとのこと。11月も下旬になっている今は、卒論も追い込みの時期である。余りにおかしいので、少し問いただすと実は親と家族旅行に行くためと打ち明けたという。


「君たちの人生の知的水準は卒論の水準で決まってくる。君たちは卒業後の人生でおそらく卒論のような論文に取り組むことはない。だから卒論は卒業後には役に立たないと思うかもしれない。しかし、第一に自分で何が問題か、問いをきちんと立ててること、第二にその問いに答えるために、先ずこれまで明らかになっていることを踏まえたうえで、第三に自分が新たに立ち向かっている問題について調べ、情報を整理し、第四に自分の問いに対する答えを探ること。そして第五にこの問いに対する答えを誰にも分かりやすく書いて伝えること。こうしたことは、大抵の仕事でも求められる作業と変わらない。

仮に卒論が社会に出てからに仕事に直接に役立たないとしても、卒論に取り組むことによって初めて君たちは大学での勉強の全体を自分の頭の中にまとめあげて自分のものにすることができる。卒論に一生懸命取り組んだ先輩たちは、書き終えた後では顔つきも変わって卒業していったし、その後もそれぞれの仕事を生き生きとしている。自分と自分の人生を大事にしたかったら、今ここで卒論に全力を傾けよう!」


こんな激励を僕も学生たちにしてきた。この同僚は「卒論なんか大学の先生たちの嫌がらせくらいしか考えていないんでしょう。大学も馬鹿にされたものですよ」という。疲れさせてくれる話だ。それにしても20代前半の若者が親と家族旅行とは。そんなものに付き合う若者は単に幼稚だけなのか。それにして、親もほとんどお病気ではないのか。ひどく疲れる。



2011年11月2日水曜日

努力しないための努力

人に読んでもらうために書いているこのブログには、他人の悪口や否定的に考えざるを得ないことは書かないように努めてきた。しかし、限度に来たようだ。嫌な辛いことが続く時でも、どこかに楽しいこと嬉しいことを見つける。そのための訓練だとも思ってきた。て書く。けられるあっても、ブログを止めるか迷っている。


後期の授業が10月から始まった。毎回初めの例で、学生に「今、重要だと思っている社会問題」「今後重要になると思われる社会問題」について書いてもらった。年々、書かれる内容がボロボロになって行く。今回は改めて、この下降傾斜が一段ときつくなったことを否応無しに感じさせられた。


「年金制度が変わるらしいが、そんな歳まで自分が生きられるか分からない。生きていたとしても、もらえるとは思えない。だから自分たちには関係ないことだと思う」、「世界の人口が70億人になって食料資源の枯渇や貧困や格差拡大が深刻になっているというけれど、自分たちはそんなに困っていない。あと30年くらいで100億人になるというけれど、その時にはどうなっているのか分からないのだから、いま騒いでも仕様がないと思う」、「若者の就職が厳しいのは、ずっとそうなのだから、アメリカやヨーロッパのように騒いでも仕方ないと思う。国の借金もひどいのだし、地震や原発のことがあったんだから、無駄づかいを止めるしかない」等々。


僕が接している学生の殆どは、今の社会が良いとも思っていない。そして、世の中が良くなって行くとは思っていない。そして、社会が人々の意識的な働きかけによって変わるとも思っていない。力を合わせて努力するなどということは、殆ど何か妄信にとり憑かれた狂信的信仰に似たものだと感じてかのいるようだ。少なくとも社会の改革に向かって自分たちが努力することはしたくない。満足もしていないが、変わらない以上、不満をかかえても「仕方ない」と達観し、専ら関心は現状への適応の中にのめりこんでいく。

中には「偉い人」や「ヒーロー」への期待をそれとなく口にする者もいる。しかし、それは少数で、大多数の関心は、希望や夢、期待を持たずにどうやって自分は生きて行くのか。他者と関わらず、他人に負担を与えず、毎日をともかく過ごして行くか。こんな辺りにあるようだ。

このひと月、定年を1年半後に控えているためか、僕は学生たちのこんな社会的構えのありようにいささか参ってしまっていた。