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2008年12月12日金曜日

法曹というもの

久しぶりに学生と裁判傍聴に行った。

以前にも増して気になったのは、裁判官や検察官たちの人を見下したような視線だ。

法律のド素人である普通の人が、緊張したり、後悔や屈辱感に耐えながら喋る。他人に分かりやすく話したり、説得的に語ることを練習等したこともない人々が大部分だ。確かに喋っている内容には、時には愚かしいこと、聞いていて腹立たしいこともある。しかし、自分の代理人である弁護士の質問にすら答えられず黙してしまう場合もあることを含めて、それぞれの人なりに懸命に何かを伝えようとしていることは確かだ。そこには生活の重大事、時とすると人生の流れを変えてしまう程のことが係っていたりする。

なるほど、裁判は法律に基づいて進められ、法律に基づいて判決が下されなくてはならないものだろう。しかし、殆どの一般人は、自分が語る言葉が、裁判の規準となるその法律にどのように関わるかを知らない。そのような素人が語っているのであること位は直ぐに分かる。にも拘らず、殆どの裁判官や検察官の構えたるや、その素人たちが語るつたない言葉から、自分たちの仕事を進めるうえで都合の良い片言隻句をつまみ取り、少しでも短時間に効率よく「一件落着」を計るかばかりを考えているといったもの。これはかなりまずいことではないだろうか。

司法試験の合格枠が広げられたからではなく、おそらく司法試験に合格する機会を得られるような社会階層の幅が狭くなっているからではないかと感じた。いわゆる「進学校」に進めた連中、中高一貫の学校や幼稚園や小学校の段階から有名私学に入ることができる家庭で育った連中。親の年収が少なくとも1千万以上、友人には親の年収が2千万以上の奴が少なからずいるような連中。親は別荘をもっていたり、少なくとも中高校までに家族での外国旅行を経験しているような連中。

お金持ちの出身であるというだけでまずいという訳ではない。しかし、もし彼らが周りがお金持ちばかりの「良い環境」とかの中で育った人であるならば、そういう人たちに「家庭の事情で進学を断念した」人々の辛さ、頑張って真面目に働いていても報われない人々の悔しさは、一体どのようにして感じられるだろうか。「他人の苦しみは当人しか分からないもの、所詮は他人には理解できない」という前に、理解しよう、その他人の身になって内側から考えてみようという気持ちになるか、あるいは、自分が他人の気持ちをよく理解できないでいることをせめて自覚できるか。こういった問題だ。

2008年12月8日月曜日

運動不足



今年の紅葉は冴えない。十月が暖たかったためだからと言うがどうだろうか。この時期に美しくなる学内の欅も、ただただ茶色にみすぼらしさを増している。クヌギや小楢の雑木林も今ひとつというところ。そのなかで、イチョウだけが一人燃え上がっている。

自転車で通勤しなくなったら、身体を使う機会がめっきり減った。
それなのに、この半年で平均体重は6kgおちた。さまざまなストレスと、睡眠不足が原因であることは分かっているので不安にはならない。しかし、体力の衰えが痛切に感じられ、つい今後の人生を考えてしまう。老人になったということだろう。

それにしても、鏡にうつる自分の顔の無内容さには今更ながらに愕然とする。暖かな人生を送ってきて中味が作られないままでいたのが、急に肉体の老化にぶつかったといったところか。今年の紅葉のありさまに似ている感じがする。