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2012年4月30日月曜日

ジジイが歩くと、、、

地下鉄に乗ったら何と冷房がかかっていた。気温が上がったとはいえ、冷房などまだ必要はない。今から冷房漬けにして夏場の電力需要が下がらないようにしようとしているのか。2010並みの猛暑を想定しての電力不足キャンペーンがうるさい。他方、2013年にピークに達すると予想されていた太陽活動のピークが早まり、今年から数十年の活動停滞期に入っているとの説もある。そうなれば冷夏になる可能性が高い。しかし、真の論点は、便利で安楽を不可侵の絶対美徳とした現在のエネルギー過剰消費の生活・社会構造だろう。どうしたらこれを打破できるものか。

神田駅で「エスカレーターが閉鎖となりました」という掲示を見た。昨日は「7日は休刊となります」というチラシを見たし、そしてバスでは「発車になります」というアナウンスを聞かされた。自然現象ではないだろう。どうして「閉鎖しました」「休刊します」「発車します」と言えないのか。どれも自分がやっていることを、あたかも誰か他の者、自分の意向ではどうにもならない不可抗力がそうさせているかのように言う。こうした「ご近所さん」レベルの無責任主義には辟易する。



2012年4月29日日曜日

六義園は社交場


風もなく実に良い日和だった。気温は暑いくらいまで上がった。それでも湿気が少し残っていたのが良かったのかもしれない。


六義園へ散歩に行き、新緑を楽しんだ。おそらく東京に残っている下屋敷の庭としては最高のものだろう。65歳からは入場料も半額、年間パスは何と600円とのこと。園内至るところ老人ばかりで、格好の社交場になっている。ぼんやり歩いていると、ぼくよりはずっと高齢の男性から「つつじ茶屋には行かれましたか」と尋ねられ、園内の解説を受けた。庭の中央にある大泉水の水源は玉川上水を延ばした千川用水から引いていたのだが、都営三田線が作られた際に断ち切られ、今では井戸から揚水し循環されていることなどを伺った。誕生日を迎えるのが楽しみになった。


駒込駅と六義園との間の交差点におもしろい表示の組み合わせを見つけた。「豊島区 Toshima City」という表示と「文京区 Bunkyo Ward」という表示が交差点で向かい合っている。英語植民地主義の表れというべきか。
そういえば以前、通勤で渡っていた橋の脇には、「荒川 Arakawa River」とあった。そのうち成田空港には「日本国 Nippon State」なんて表示が掲げられるのだろうか。強い者にしっぽを振るのが習い性となったワンちゃん根性。



2012年4月28日土曜日

サンフランシスコ条約の還暦祝い

初夏の気温になった。至るところで花が咲いている。新緑も美しい。とはいえ、街中のため園芸種の派手な花ばかりが目立つのが何とも哀しい。


自民党の改憲案が発表された。中学生並みの内容。内容に目をつぶるとしても、「あなたは日本人か」と言いたくなる程のひどい文章。なまじきちんとした文章ではアッピール効果がないのかもしれない。唯一評価できるのは、サンフランシスコ条約発効60年を意識したこと。昨今の護憲派が60年安保ばかりを標的にし、昨年の9月8日の調印60年をろくに記念しなかったことよりも、この点はましかもしれない。


もっともサンフランシスコ条約が作り出した対米従属の枠組みを変えるというのではなく、「還暦」を迎えこれを改めて確認し、事実上強化するというのがこの改憲案の方向だ。
「衆参対等統合一院制国会実現議員連盟」(民・自・公・み)120人も憲法42条改正提案を衆院議長に提出したという。みんなの党も改憲構想を出したらしい。いずれも、首相公選、参議院廃止、改憲発議要件の緩和を主張する橋下・維新の会が先鞭を切った動きに連なるものだろう。現状では、こうした内容の改憲が発議されるまでになる可能性は極めて低い。しかし、フラストレーションを高めている財界と「スピード感ある政治」を求める「民意」とが政治的に合流合体したとき、それは現憲法の改憲手続き条項を越えた形での突破力になるかもしれない。

気分転換ばかり


国立博物館に「ボストン美術館 日本美術の至宝」展を見に行った。目玉の平治物語絵巻三條殿夜討巻はさすがだった。吉備大臣入唐絵巻は絵も面白かったが、詞書のかなが美しく楽しめた。宣伝している曽我蕭白は、受けを狙った構えがみえみえで技法も高くなくつまらない。

それにしても混んでいる。本館へまわって平治物語絵巻の六波羅行幸巻と見て早々に帰った。


ワシーリー・グロスマン『人生と運命』を読み始める。ナチズムとソビエトの全体主義体制は似ているが、体制の公認教義がヒューマニズムを肯定しているか否かの点だけが異なるといった指摘を思い出した。実に暖かで豊かな人間の描き方なのだ。今のぼくの気分にしみ入るように応えてくれる。1巻だけでも500頁はあるのだが、読み出すと止めるのが難しい。

2012年4月25日水曜日

ストレス(その1)

なじみの肉屋さんに行くと、園芸にこっているご主人が育てた見事なボタンが咲き誇っていた。


今朝もまた地震があった。地震の度に4号機の使用済み核燃料プールが心配になる。


4号機の建屋は、昨年3月15日の爆発で大きく破損し、使用済み核燃料プールが外部に剥き出しになっただけでなく、強い余震があればいつ崩壊しても不思議ではない危険な状態になった。東電は従来の耐震基準の2割増で補強工事を行ったから大丈夫と言っているようだが、しかし生身の人間が生きていることが出来ない程の高線量の現場でどれだけの工事が出来たのか怪しいものだし、またこれから起こる地震が2割増という範囲内に治まる保証はどこにもない。


核燃料プールには炉心の倍以上の使用済み燃料があり、これが崩壊すれば福島第1に人がいることはできなくなり、チェルノブイリの10倍規模の放射線汚染が引き起こされるという。事故直後3月25日の原子力委員会「不測事態シナリオ」でも、4号機プールの使用済み核燃料が溶解した場合、半径170kmが強制移住、半径250km(横浜くらいまで)に避難勧告とあった。


東電は今日、核燃料プール内に散乱した瓦礫の分布図を発表した。共同通信によると、「分布図を参考にがれきの重量や大きさを推定し、必要な機械の設計や撤去方法を検討する」とある。
http://www.47news.jp/47topics/e/228644.php

「東京新聞」4月17日の「こちら報道部」の記事によると、使用済み核燃料の取出しを3年後には終えるとの東電の工程表は、現場の高線量から無理で、最低でも5年はかかるだろうという。それまでに核燃料プールを倒壊させるほどの地震は起こらない保証はどこにもない。

そういえば3月8日の「朝日新聞」によると、4号機の核使用済み燃料の過熱による崩壊がなかったのは、まったく偶然のたまものとのことだ。

http://digital.asahi.com/articles/TKY201203070856.html

2012年4月24日火曜日

多数代表制の時代は終わった?


近所を歩いていたら、植え込みの端からアミガサタケがのぞいていた。おいしいキノコなのだが、汚染を怖れて採取は諦めた。まったく東電と政府にはアタマにくる。


フランス大統領選挙第1回投票では、移民排除を訴える国民戦線Front national のルペン Le Pen が18%近くを得票し第3位を占めた。第4位は左翼戦線 le Front de Gauche (なぜか日本では極左とレッテルが貼られている)のメランション Melenchon で得票率約11%。1位につけたオランドが約28%で、サルコジが約27%。そして全体の投票率は約80%。


5月6日の決選投票に残った双方は、第3位以下へ投じられた票の獲得に向けて釈迦力になる。かつてなら国民戦線票はサルコジへ、左翼戦線票はオランドへ流れるものと、ほぼ予想できた。ところがルペンはこれまで前面に出していたサルコジ批判を弱めていない。他方、「左右を越えた支持」を訴えているオランドに対して、メランションは極右との絶縁を求めている。いずれも大統領選挙だけでなく、その後に予定されている議会選挙での議席をにらんでのものだ。


こういう動きを見ると、「議会までの民主主義」を越え「行政権までのまでの民主主義」の実現を謳って、多党状況を人為的に2極へ絞り込むべく導入されたこの国の小選挙区2回投票制が限界にきていることを感じざるをえない。確かに第2回投票での多数派形成工作は、それまで議会内の「民意からかけ離れたところ」で隠れて行われていたという駆け引きを、「選挙民の面前」で公然と行われる透明性の高いものにしたかもしれない。しかし、その多数派形成の内容は、今回は多くの有権者にとって訳の分からないものになっているようである。


それはサルコジの右派とオランドの中道左派との違いが少なくなり、両者によっては代表されないと感じる者がふえ、政治勢力としても自立し、多党化状況を強めているからであろう。こうした状況は海賊党が躍進したドイツでも見られる。そして日本の現状も同じ脈絡で理解できると思う。多数代表制によって人為的に2極対立を作り出し、「強い政府」「機敏に動く政府」への「民意の反映」を計れば政治に正当性が得られる時代は終わったと思う。

2012年4月9日月曜日

家事の性別役割分担の6形態


かつて経験したことのない酷い「冬」を送っていた。このブログも止めようかと思っていた。ところが、何人かの友人から「ブログはどうした?」との問い合わせを受けた。そもそも勤め先で学生向けに出していた個人新聞を引き継ぐようにして始めたブログだった。振り返ってみると、しかしとても学生向けとは言えない内容になってきいる。教員の仕事はあと1年足らずで止める。その序でに止めるのも一案だろうが、この際は学生との関係に縛られずに書くという転進もあるかもしれない。当面はそんな過渡期の迷いを記録していくことにした。

先月末に卒業生の論集に寄せた小文を再録する:



性別役割分担としてここで報告するのは、男女夫婦の間での家事の担われ方である。長年にわたる観察の結果、筆者は観察対象には様々な形態があり、そこには社会における男女関係のあり方が反映しているとの結論に達した。
以下、男性の家事遂行が少ない順序でこの諸形態を整理する:

第1形態:男子厨房に入らず
男性が関与しないのは台所だけではない。自らの衣服管理も女性が行うべき家事とされるから、その日に着る衣服は女性によって日々用意され、脱いだ衣類は脱いだままにしておいても女性によって片付けられる。
帰宅して奥さん*1が不在だと、部屋の明かりもつけずに座って待っているという事例を聞かれた。自宅の鍵は自分で開けて入ったとしても、何もやらずにいたことは「俺が帰ってきたというのに不在とは何事か。俺に何かをやらせろというのか」という女性に対する抗議であると推測される。

第2形態:「うちの人はよく手伝ってくれるので助かっています」
男性がよくやる家事のトップ3つは、25年くらい前に行われた調査によると、新聞取り、雨戸開け、ゴミ出しであり、平均所要時間は7分であった。雨戸のない家がふえた現在、この所要時間が短縮されたか、それともそれに代わって洗濯物の取り込みなどが昇格したかは不明である。

第3形態:「家事は趣味です」
色々なところで「オトコの料理」といったものが面白気に語られるのを見たオトコ*2たちが、陽気の加減か、憂さ晴らしかで外から見たら発作的としか思われない時に料理や掃除に取りかかったりする場合。
日頃食べている食材の値段を知らないから、概して高いものを買ってくる。素人料理の出来不出来は食材の善し悪しによるところが大きいので、調理の仕方がなっていなくても、「お父さんの作ったものはおいしい」とほめてもらえる程にはなる。しかし、こうした発作の後の台所の片付けは大変である。これもたまに食事の手間が省けた分よりも負担が少なければ許容され、幸せが共有される。

第4形態:「家事は平等に分担しています」
平等という法的正義観念に縛られた男性の多くは、この観念から出発して家事に立ち向かう。その雄志は極めて気高く美しいものであり、きれいごとでお茶を濁すことを旨としている学校教育の場では大いに推奨されている。
ここでは男女の間に、本来的に固有の家事役割は想定されていない。「料理はオンナ、力仕事はオトコ」といった固定的分担は存在しない。家事作業の内容に関わりなく、専ら平等が規準とされるのである。
しかし家事は日々の生活の中で行われる営みである。それはいわば総合戦であるから、その従事時間や作業量を数量計測して半分にすることはできない。
家事の現実の前に、この法的平等観にたつ突撃は、所要時間や作業の「半分」が終わった時点で交代するというような、喜劇にたちまち転化する。一週間が奇数のため割り切れないという事情も、この平等観の実践者がぶつかる深刻な問題である。

第5形態:家事の「棲み分け」分業
第4形態の喜劇が悲劇に再転化することを回避する結果とられることの多い形態である。一方が買い物と後片付けをし、他方が調理をする、一方が洗濯し他方が干して取り込むといった、家事をより下位の作業工程に分解したうえでの分担形式(細かい分業)をとったり、一方が炊事、他方が掃除洗濯を担当するといった分担形式(大まか分業)をとったりする。後者の場合によく語られるのは、「それぞれが得意なものを分担する」という説明である。

ここでも第4形態が規準とした平等が分担の尺度となる。細かい分業については、異なる作業工程間での単位作業の定量を設定することの困難性が問題となる。何を調理するかを考えずに買い物はできないし、後片付けや次にとる食事を考えずにこれからの料理にとりかかることも少ない。干す順序を考えて洗濯し、着る時を考えて洗濯物を取り込む。家事を観念の上で一連の作業工程に分解して理解することはできるとしても、実際の家事において各作業工程は内的に相互連関しており、実際の作業上はこれを分解することはできない。
さらにまた、大まか分業についても、家事を構成する諸作業は相互に質の異なる作業であるという困難が存在する。将来、料理や掃除・洗濯を一手に行うロボットが作られたと想定してみればこのことは理解できる。そのプログラムの複雑性(というのかな)や量は異なるであろうし、実際の作業に要するエネルギーも異なるだろう。感情のある人間が、異なる作業間での平等分担を実現することは、そもそもこれら作業間を貫通する量的計測ができず、質的均衡を計ることができない(まぁ形容矛盾ですね)以上、不可能事といってよい。
この第5形態を現実に維持しているのは、一方で平等(量的でしかありえないとしても)の追求と、他方で絶えず現実に生じる不均衡を是正するためとして発揮される相手方への無定形の配慮である。

第6形態:やれる方がやる
現実の生活において第5形態がその限界に直面する確率は低くない。それは一方が疾病、事故などで家事を行えなくなる事態である。かかる事態に際会した場合、第5形態でも男女の共同生活は危機に瀕する。共同生活を解消するか、それとも危機克服のためあらたな形態を作るかの選択が迫られる。その結果としてとられるのが、「やるしかない家事はやれるほうがやる」という形態である。
この形態においても興味深く観察されるのは、この形態にある男性の多くは「よくそこまでやりますね」と感心される(または呆れられる)ことには慣れていても、時折「しかし、私のようにやっている男は少ない」という自負を漏らすことである。こうした自己表現は、この形態の女性の方もないことである。

*1 大槻文彦先生の『大言海』によると、本来は「家の内の後ろの方」、つまり「奥方に居る」人の意味とのことだから、この方たちはで自ら家事などはやらない。家事にかかわるとしても使用人等に指図することくらいで、自分で身体を使い、手を汚すことはない。だから庶民の中に本来の意味での奥さんは言う筈もないのだが、しかし万事上昇志向を良しとする人々としては、この形態においてはこう呼ぶのです。

*2 男性でも男子でも、漢字で書く男でもなくカタカナでオトコと記すとき、これは股の間にぶら下げているものに絶えず意識を配っている存在を意味する。



以上、昔に作った小話でした。