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2023年12月31日日曜日

ガザから目を離せるか?

ガザの人々に対するイスラエルの攻撃が始まって以来、ぼくは病的になっている。

ジェノサイドの教科書のような殺戮と迫害が全世界に実況中継されているにもかかわらず、これを止めることができないでいるのは一体どうしたことなのか。現実から目を背けてはならないとはいうものの辛くてたまらない。とても新年を祝う気持ちになれない。

安全で快適なところにいながら、人々が殺され傷つけられ絶えざる恐怖と飢え、寒さ、苦しみにさらされ続けているのを目の当たりにする。確かにこうした冷酷な隔たりは今に始まったことではない。これまでにもいくつもあったし、今もガザ以外の場所でもそうした現実はあるのだろう。スーダン、エチオピア、コンゴなどにはジャーナリストが殆ど入らないだけの違いかもしれない。
 
それでもぼくにはこの戦争は今の世界にとって特別の意味があると感じれれてならない。その第1は、この戦争は、イスラエルにとってかつてイギリスによって設定されユダヤ人に保証されたパレスチナの地の全土を「聖書によってユダヤ人の国」として与えられた地としてイスラエルが完全に領土化する建国戦争を完遂するものとされている、21世紀まで続いた最後の植民地戦争であること。第2に全世界を前に繰り広げられるイスラエルとアメリカによるジェノサイド行為を前に、いわゆるグローバル・サウスを含む広範な反対の動きが広がっており、国連の平和と人権保障の機能、国際人道法の実効性の如何が鋭く問われていること。つまりイスラエルとアラブ・パレスチナとの間だけでなく、ジェノサイド・民族浄化と国連・国際人道法との間での生きるか死ぬかの戦いになっていると感じられるのだ。

そしてその見通しは暗く厳しい。アメリカとイスラエルの圧倒的な軍事力によって、ハマースは崩壊寸前まで追い込まれるかもしれない。ガザに人々の多くは極限までの非道行為に対する何の補償も、今後の生活について何の保障もなくガザを追い出されかもしれない。外道たちの「勝利」、墓場の平和。しかしそれで終わるはずはない。その間に奪われる生命、日々の暮らし、喜び、そして希望。それでもこんなことを許してはならない、続けてはならないという思いを押しつぶすことはできない。

10月以来ぼくがやったことといえば、イスラエル・ガザ戦争について日本の大手メディアの報道が貧しいので、Al Jazeera にのった歴史的背景についての案内を翻訳アプリを使って訳しPDFファイル(このブログには添付できない)にして知人にばら撒いたこと、パレスチナ子どもキャンペーンやJVCに送金したことなどでしかない。

日々の生活の中で、どうやって支援を続けていくか。また試行錯誤が始まると思う。

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What’s the Israel-Palestine conflict about? A simple guide


https://www.aljazeera.com/news/2023/10/9/whats-the-israel-palestine-conflict-about-a-simple-guide




イスラエルとパレスチナの紛争とは何か簡略な解説

 数万人が殺され、数百万人が家を失った。そしてその未来は過去の中にこそある。それを私たちは解き明そう。


 アルジャジーラスタッフより  2023 10 9 日発行


イスラエルとパレスチナの紛争は、何万人もの命を奪い、何百万人もの人々を難民としてきたが、そのルーツは100年以上前に行われた植民地化の行為にある。

イスラエルは、パレスチナの武装組織ハマスによって土曜日[2023107日 現地時間]に前代未聞の攻撃を受けた後、ガザ地区への宣戦布告をした。次に何が起こるか、世界の目が再び鋭く注がれている。

ハマスの戦闘員は、イスラエル南部の複数の町への攻撃で800人以上のイスラエル人を殺害した。これに対してイスラエルはガザ地区で空爆作戦を開始し、500人以上のパレスチナ人を殺害した。

 イスラエルは、地上からの攻撃を明かに準備し、ガザとの境界沿いに軍を動員している。

そして月曜日には、ガザ地区の「完全封鎖」を発表し、すでに包囲されているガザ地区に対する食料、燃料、その他の必需品の供給を停止した。これは国際法上戦争犯罪である。

しかしながら、今後数日から数週間で展開されることは、歴史の中にその根元があるのだ。

これまで何十年もの間、欧米のメディア、学者、軍事専門家、そして世界の指導者たちは、イスラエルとパレスチナの紛争を難解で複雑、そして行き詰まったものと描いてきた。


以下は、世界で最も長く続いている紛争の1つを解き解すうえの簡単な案内である:

バルフォア宣言とは何だったか?

  • 百年以上前の1917112日、当時のイギリス外務大臣アーサー・バルフォアは、イギリス・ユダヤ人社会の重鎮ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに宛てた手紙を書いた。
  • この書簡はわずか67語という短いものだったが、その内容はパレスチナに大きな衝撃を与え、それは今日に至るまで大きな影を落としている。
  • この書簡は、「パレスチナにユダヤ人のための民族の故郷を建設すること」と「この目的達成」を促進することをイギリス政府が約束するものであった。この書簡はバルフォア宣言として知られている。
  • 要するに、ヨーロッパの一大国が、パレスチナ系アラブ人が人口の90%以上を占める国においてシオニスト運動が1つの国を作ることを約束したのである。
  • イギリスの委任統治は1923年に創設され、1948年まで続いた。この間、イギリスは大量のユダヤ人移民を受け入れ、新住民の多くはヨーロッパのナチズムから逃れてきた者であったが、彼らはまた、(パレスチナ系アラブ人からの)抗議やストライキにも直面した。パレスチナ人は、自国の人口構成の変化と、ユダヤ人入植者に引き渡するためのイギリスによる土地の没収に警戒心を募らせていった。

1930 年代に何が起こったのか?

  • 緊張がエスカレートし、最後は1936年から1939年まで続くアラブ反乱[パレスチナ独立戦争]に至った。
  • 19364月、新たに結成されたアラブ民族委員会 Arab National Committee は、イギリスの植民地主義と増え続けるユダヤ人移民に抗議するため、ゼネスト、納税の差し控え、ユダヤ製品のボイコットをパレスチナ人に呼びかけた。
  • この6ヵ月間のストライキは、イギリスによって残酷に弾圧された。イギリスは集団逮捕作戦を展開し、イスラエルが今日もパレスチナ人に対して実施している懲罰的家屋取り壊しを行った。
  • 反乱の第二段階は1937年終わり頃から強まり、イギリス軍と植民地主義を標的にしたパレスチナ農民抵抗運動が主導した。
  • 1939年後半までに、イギリスはパレスチナに3万の軍を集結させた。村々は空爆され、外出禁止令が出され、家屋は取り壊され、[裁判なしの]行政拘留と即決殺人が蔓延した。
  • これと並行して、イギリスはユダヤ人入植者コミュニティと協力し、武装グループを結成し、特別夜間部隊と名付けられたユダヤ人戦闘員によるイギリス主導の「叛徒対抗軍」を結成した。
  • 国家樹立前の入植者コミュニティであるイシュブでは、武器が密かに輸入され、後にイスラエル軍の中核となるユダヤ人準軍事組織ハガナを拡大するための武器工場が設立された。
  • この3年間の反乱で、5,000人のパレスチナ人が殺され、15,000人から20,000人が負傷し、5,600人が投獄された。

1920 1946

パレスチナへのユダヤ人入植

英国の記録によれば、1920 年から 1946 年の間に、主にヨーロッパからの推定

376,415 人のユダヤ人移民がパレスチナに到着した。