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2008年7月29日火曜日

木が気になる



無垢の欅のテーブルを見て以来、木材にはまり込んでいる。

歩いていても、運転していても、樹木ばかりが気にかかる。そして、どの木をみても、「あれを伐採したらどんな杢目が見れるだろう」などと不届きなことばかりを考えてしまう。

手元には、先日もらったカイヅカイブキと楠の小さな木っ端があり、その杢目と香りを楽しんで飽きることがない。それを掌に入れ、眺めたり嗅いだりしているだけで安らかな時が流れて行く。

やらなくてはならないことは多いのに、実に困る。早く木工の基本的技術を身につけて、小さなものからでもよいから、落ち着くきれいな板目のものに取り替えたい。

十分な時間がとれない今は、合間にゲリラ植樹と、使えそうな木材集め、その割れ止め処置、そして基礎技法の少しずつの学習。

2008年7月27日日曜日

クーラー問題

暑さにくたばっていた。いくらでも睡い。昼休みに頑張ってプール(何と水温も30度)に使って、ふらりふらり泳ぐと、どことなく身体がこの高温と高湿度になじんで来る感じがする。

それにしても付いて行けないのは、教室に入ると「24度、冷房」にエアコンが設定してあって、ガンガン冷やしている室内で学生は平然としていることだ。この数年になってようやく学生たちが可愛く感じられるようになって来た私も、こんな季節まで学期がある方に無理があるのだとは思いながらも、この温度設定には怒りを感じてしまう。第一、こちらが寒さに凍えてしまう。

「こんな温度設定を当然だと居直るなら、もう温暖化は問題だとか、フードマイレージについて考えようとか語る資格はないんじゃないか」と言うと、何人もが僕の方を睨みつけてくる。「これだけの人数が広くない教室に集まっているのだから暑いのは当然。暑ければ不快になり能率も悪くなる。君たちのいうところのアル程度は冷房をかけてもよいのではないか、というのなら、何度が適当か議論しようじゃないか」。エコ・テロリスト的挑発には反応なし。藤田省三のいう「安楽への全体主義」か。

そういえば東上線の温度設定もいかれている。ネクタイにジャケットの男達が定員の80%以上は乗っているときの設定なのだろうか。大部分の女性乗客は、冷房予防に肩から羽織れる薄い衣類を余計に用意している。問題は、この国にますます根深くなっている大勢順応主義か。

                       

2008年7月15日火曜日

杏の実


日曜に遠くに出かけた。その出先のスーパーで杏を見かけた。他の果物の値段に比べて可哀想になるほどの値がついている。懐かしさと美しさに惹かれて早速買った。傷みやすいので、都市部には出ないらしい。

以前、イタリア語を習っていたジョヴァンニGiovanniのところで、「さっき採ったばかりだ」と勧められたことを思い出した。窓から外をみると、たわわになった杏の樹が見えた。その時は余りのうらやましさに、すぐに手が出なかった。どうして日本の都市部ではもっと果実のなる樹々を植えないのだろうか。「その実が誰のものかが問題になる」「落ちた実の始末に困る」「争いになる」等々、すぐさまに聞こえてきそうな異論が思い浮かぶ。そういえば、隣の団地にある見事なヤマモモがあるのだが、今年は実が落ちもしないうちにきれいに片付けられていた。

2008年7月13日日曜日

いびつな頭

暑くなったので、以前に子どもの髪を刈るのに使っていたバリカンを自分の頭に使ってみた。久しぶりだったこともあって、刈り込む髪の長さを5ミリ、3ミリと調整するための櫛にあたる部品をはめるて使うのを忘れた。映画などで兵役に捕れれた若者や収監者がやられるシーンのように、髪が刈り込まれたスジが、瞬く間に見事に通ってしまった。我ながらびっくり。

そこはしかし歳の功(?)で、泣き喚きもせず、「さてどうしたものか」としばし思案した。額上から頭上にかけては既に禿げているので、モヒカン刈りというわけにもいかない。右半分だけというのも様にならない。西洋の坊さんスタイルにするには、刈り込まれた部分が上過ぎてこれまた格好がつかないし、突然に耶蘇教徒の真似でもあるまい。どんなデザインを考えても遊んでいるとしか思われない。まだ、給料を稼がなくてはならない僕としては、ヘアならぬ禿げスタイルで遊ぶ訳にはいかない。

そこで、あっさりと諦めて全面丸刈りにすることにした、スキン・ヘッドが右翼の専売特許の時代でもない。風呂場でカミソリを使って坊さんスタイルにそりあげてしまった。さっぱりした。ところが、鏡を二つ使って後ろから見える我が禿頭を眺めて呆れた。まったくいびつで、不格好。まるで白土三平の漫画にでてくるえげつない悪坊主のデコボコ頭といった案配なのだ。

どうやら僕は、坊主刈りにすれば自動的に、どこかのサッカー選手とか、ペットボトルのお茶屋のコマーシャルだかに出ている俳優の頭のようなものになることを、勝手に期待していたらしい。我ながらアホだった。とは言ってもアホな失敗をしたつけなのだから今更仕方ない。

僕に会う人がびっくりするかもしれないので、「少し思うところがありまして」とか、「今更未練がましくもしたくないので」とか、「これも床屋代を浮かせるためです」とか、「温暖化に対するアピールです」とか、せめて恐ろしがられないための台詞を考えておかなければなるまい。こう思っていたのだが、最初にこの丸刈り姿を見た我が連れ合いの曰く、「あら、随分すっきりしたじゃない」。今更、動じるふうでもない。

予め考えておかなければならないことは、どうやら、この頭の中味もその外形のようにいびつで歪んでいることを気取られないことあたりか。

2008年7月11日金曜日

奪えない時間、自分のものでしかない経験



岩田『現代の貧困』ちくま新書を、入門ゼミ(社会科学基礎演習)で8回をかけて読んだ。

若干の出入りはあったが、最後まで熱心に参加したのは10人の若者。彼らの真摯な問いかけに、ついぼくが喋りすぎてしまう傾向があったが、報告も討論も充実していた。幸せな時間だった。

例えば初回1章をとりあげた討論は、こんな調子だった:

<出された論点>

A.なぜ日本では貧困の問題化が10年遅れたのか?
B.ワーキング・プア、ニートが生まれた社会背景は何か?
C.日本のホームレスがおとなしいのはなぜか?
「苦しい」とは言っても自分の失敗を語っていない。
「恥」が原因か?
D.貧困は問題になっても、格差は問題にならないのだるか?
E.「総中流化意識」は日本だけにあったのか?
同じように高度成長のあった他国ではどうだったのだろうか?

<論点Eについての議論>

Kb:見て見ぬ振り、体裁屋といった国民的性格が原因ではないか?

O:イギリスなどは産業革命以降の階級対立の顕在化が、日本を比べると顕著だったのに対して、日本では池田勇人の「国民所得倍増論」のように、全員を一緒に持ち上げ、漏れる人がいないようにする「社会主義的」とでもいった考え方があったからではないか?

Kr:多くの人に貧困が見えなかったからではないか。(イギリスなどの)産業革命(以降の経済成長)は、長期的で漸進的であって、その中で格差が作られていったのに対して、日本の高度成長は比較的短期間になされた。その時期には、大勢の人は経済成長の方に関心が集中し、そこからあぶれる人を見ない傾向になったのではないか。

Kk:戦後の復興が一挙になされ、(生活を)上げることに多くの人の意識が集中し、下層に手が回らなかったからではないか。

Sk:「とりこぼしのないように」という制度でも、それでもこぼれた人はいる。その人たちを見て見ぬふりをした。
それは、貧しくなった人も言い出しにくい、恥ずかしいという意識があり、その人たち自身が声を挙げたり、主張したりすることが弱かったからではないか。

Ay;例えば生活保護の申請をしても、「兄妹がいるからダメ」といったように門前払いされた人を知っている。声を挙げた人はいた。しかし、政府や自治体の貧困についての認識が甘かったのではないか。貧困を問題にすることを制度が阻んだのではないか。

Ab:自治体が(生活保護申請を)受け入れないなどの対応をするときに、それは家族や身内の責任だというように押しつけてしまう。そうした行政機関の対応の仕方には「日本人の意識」といったものを利用するやり方があるのではないか。自治体や行政がただ拒否するだけなら却って反発がでてくる可能性もあるけれど、こういう「日本人の意識」といったものを使った対応のために、いよいよ声を挙げにくくなるのではないか。

2008年7月9日水曜日

デモをかけるにも値しない

まったくみっともないサミットが終わった。
2050年までに半減なんて数値目標としても大して意味のないことすら決められなかった。福田首相の点数稼ぎになるような映像も演出できない。先進国なる傲慢な自己規定をする国家政府の連中が、世界規模でのイニシアティブを発揮するような場面は作られなかったのではないかという感じがする。
札幌などでは、サミット批判派のちっぽけなデモを警察がよってたかって封じ込めたらしい。

http://j5solidarity.blog116.fc2.com/blog-entry-6.html
http://www.news.janjan.jp/special/0807/0807060326/1.php

民衆弾圧についてだけは確実に先進国である金持ち国の政府代表達に対抗してデモをかけた人たちを僕は尊敬するのだが、他方、サミットのようなタイプでの「先進国」主導演出の時代は終わりつつあるのではないかという感じがしてならない。



ツユクサが咲き始めた。実に美しい。

合歓の木



気がついたら隣の団地の合歓の花が咲き始めていた。このところの雨でせっかく咲いてもすぐにしぼれてしまっていて、かわいそうな感じもする。
豆科の木だそうで随分に高く伸びている。知人によると花の香りは良く、桃、それも水蜜に似た甘いかおりがするそうだ。花は高い所に咲いているので、小さい子どもの頃にでも木登りしてかおりを嗅ぎたかった。それとも「変なオジさん」になって早朝でも木登りをしてみようか。

 象潟や 雨に施西が ねぶの花

久しぶりのバレー

元気の出るものを見ようと、職場のそばの劇場でやっていたラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス La La La Human Steps というダンス・グループの「アムジャッド」Amjadと題する作品の公演を見に行った。
「白鳥の湖」と「眠れる森の美女」かとかの20世紀初頭の「古典」にあったオリエンタリズムを、脱構築したとか何とか言っていたが、ダンスとして見ていると何ともウーンであった。大きなジャンプも回転もない。そんころに表現の物足りなさを感じた。自分もある種のオリエンタリズムにとらわれていたのだろう。

ライトの当て方を激しく変えることで、ダンサーの姿形や動きに違う印象を浮き彫りにするやり方は、ダンスの照明にはつきものでもあるし、禁じ手だとは思わない。しかしそれが過ぎると、バレエそのものの構造のおもしろさを照明の与える印象で誤摩化しているようにも感じられる。時折、得体の知れない円盤を上からたらしてきて、それに映像を映し出すのも、「おいおい、いい加減にしろよ」であった。ダンサーのお休み時間のためだったのかもしれない。

それにしても、1時間半近いぶっ続けの演技で、見ている方も疲れた。良かったのは中国出身のシュエン・チェン Xuan Cheng だった。一人だけ、頭を抜いて大柄の女性ダンサーは、他の女性ダンサーが小柄であったため、気の毒だった。

http://mv-theatrix.eplus2.jp/article/91350662.html

2008年7月8日火曜日

時計がなかったら

二学年で5人のゼミ。そこで2人が交互に休む。事前通知なし。
余程に面白くないのだろう。積み重ねが難しくなるから、いよいよ面白くなくなる。こちらもがっかりする。

前回出てこなかった一人に訳を聞いた。「朝寝坊です」。若い学生時代には僕もよくやった。そんな経験者が無断欠席に腹を立てるのはおかしなことだろう。しかし、気分が落ち込む。そこで別のことを考えた。

時計というものがなかったら遅刻もないではないか。時を計ることは昔からやられて来た。しかし、分刻みで大勢が動かされる時代は、つい最近になってからだろう。日時計もない時代のほうが人類には長かっただろう。江戸時代あたりはどうだったのだろうか。

秒まで刻むような時計などなかった時代の方が、生活の流れ方は落ち着いた人間に相応しいものだったのではなかろうか。

2008年7月3日木曜日

夏風邪

朝から頭痛。だるい。先日から少し肌寒く感じていた。動かないで休んだ。
少しばかりペーパーナイフ作り。

2008年7月2日水曜日

頭より手を動かす

どうも体調が良くない。
混みいったことを考えることが面倒になっている。

こんな時には体を動かしていると少なくとも気分が辛くなることは少ない。元気一杯という訳にいかないので、ピアノを叩いたり、先日木材点でもらって来た木切れを削ったりしていると気持ちにも宜しい。早速、ペーパーナイフもどきの物を作った。

2008年7月1日火曜日

続けられる「悪いこと」を一つ

子どもが生まれたときの挨拶に、「御陰さまで」と言う人がいると言って笑っていた人がいた。彼の曰く「俺の子どもじゃないぜ」。

今日は僕の誕生日だった。つくづく「御陰さまで」と思う。皆さんの御陰でこの歳まで大したこともなく(と思っているのはアホな僕だけかもしれないが)、生きて来ることができたと思う。沢山の人に支えられた来たことをありがたく思う。中には既に亡くなってしまった方もいる。感謝の伝えようもない。誕生日祝いなどは何もないので、親譲りのドケチが身に付いている僕は寂しくないと言ったら嘘になる。しかし、それでも誕生日祝いくらいは自分自身でできる。「酔っぱらいは嫌い」という連れ合いもいてくれる。

誕生日祝いに一つやった。30年前からいわばモットーとしていたことだ。「自分にできる悪いことを一つはやり続ける」こと。当初の数年は、元号を書かない、「済みませんね、覚えていないんです」といった抵抗。長期的に見ればまともでしかなく、良いことでしかないけれど、現在の社会的仕組みの中では「悪い」とされていることを、しかし、それが自分の力量、才覚でできるのならば、敢えて意識的に続けること。

そういうことをしていなくては、「右へ倣え」の日本社会では日常的にクソ秩序の維持加担者になり続てしまう。せめて日常的にそこから外れ、アリバイ作り/自己欺瞞と揶揄されようと、自分なりにできることをやる。

今日の夕方は、慌てて柑橘類の実生をいくつかの所に植えた。周りの生態環境からすると見当違い、不適切なことかもしれない。

30年前の就職時に植えた欅は、無事に育って4階からも緑を楽しませてくれている。その後に植えた楓は20年くらいは生育したが、遂に枯れてレてしまった。これまでも柑橘類は何度も試みたが途中で抜かれたり、折られたりして1mにも育ったことがない。冬の緑と食べられなくてもきれいな実を想像すると一・二本育てたいのだが。

こんなゲリラ的活動でウロチョロしていると、先日まで満開だったネジ花が一斉に「草刈り」で刈られてしまっているのに気づいた。仕事を請け負った園芸業者の人としては、いちいち,満開のネジ花などに構っていることはできなかったのだろう。そんな仕事の仕方しか頼めない仕組みをおかしいと思わなくなったら、やはりおかしいと思う。