2012年4月9日月曜日

家事の性別役割分担の6形態


かつて経験したことのない酷い「冬」を送っていた。このブログも止めようかと思っていた。ところが、何人かの友人から「ブログはどうした?」との問い合わせを受けた。そもそも勤め先で学生向けに出していた個人新聞を引き継ぐようにして始めたブログだった。振り返ってみると、しかしとても学生向けとは言えない内容になってきいる。教員の仕事はあと1年足らずで止める。その序でに止めるのも一案だろうが、この際は学生との関係に縛られずに書くという転進もあるかもしれない。当面はそんな過渡期の迷いを記録していくことにした。

先月末に卒業生の論集に寄せた小文を再録する:



性別役割分担としてここで報告するのは、男女夫婦の間での家事の担われ方である。長年にわたる観察の結果、筆者は観察対象には様々な形態があり、そこには社会における男女関係のあり方が反映しているとの結論に達した。
以下、男性の家事遂行が少ない順序でこの諸形態を整理する:

第1形態:男子厨房に入らず
男性が関与しないのは台所だけではない。自らの衣服管理も女性が行うべき家事とされるから、その日に着る衣服は女性によって日々用意され、脱いだ衣類は脱いだままにしておいても女性によって片付けられる。
帰宅して奥さん*1が不在だと、部屋の明かりもつけずに座って待っているという事例を聞かれた。自宅の鍵は自分で開けて入ったとしても、何もやらずにいたことは「俺が帰ってきたというのに不在とは何事か。俺に何かをやらせろというのか」という女性に対する抗議であると推測される。

第2形態:「うちの人はよく手伝ってくれるので助かっています」
男性がよくやる家事のトップ3つは、25年くらい前に行われた調査によると、新聞取り、雨戸開け、ゴミ出しであり、平均所要時間は7分であった。雨戸のない家がふえた現在、この所要時間が短縮されたか、それともそれに代わって洗濯物の取り込みなどが昇格したかは不明である。

第3形態:「家事は趣味です」
色々なところで「オトコの料理」といったものが面白気に語られるのを見たオトコ*2たちが、陽気の加減か、憂さ晴らしかで外から見たら発作的としか思われない時に料理や掃除に取りかかったりする場合。
日頃食べている食材の値段を知らないから、概して高いものを買ってくる。素人料理の出来不出来は食材の善し悪しによるところが大きいので、調理の仕方がなっていなくても、「お父さんの作ったものはおいしい」とほめてもらえる程にはなる。しかし、こうした発作の後の台所の片付けは大変である。これもたまに食事の手間が省けた分よりも負担が少なければ許容され、幸せが共有される。

第4形態:「家事は平等に分担しています」
平等という法的正義観念に縛られた男性の多くは、この観念から出発して家事に立ち向かう。その雄志は極めて気高く美しいものであり、きれいごとでお茶を濁すことを旨としている学校教育の場では大いに推奨されている。
ここでは男女の間に、本来的に固有の家事役割は想定されていない。「料理はオンナ、力仕事はオトコ」といった固定的分担は存在しない。家事作業の内容に関わりなく、専ら平等が規準とされるのである。
しかし家事は日々の生活の中で行われる営みである。それはいわば総合戦であるから、その従事時間や作業量を数量計測して半分にすることはできない。
家事の現実の前に、この法的平等観にたつ突撃は、所要時間や作業の「半分」が終わった時点で交代するというような、喜劇にたちまち転化する。一週間が奇数のため割り切れないという事情も、この平等観の実践者がぶつかる深刻な問題である。

第5形態:家事の「棲み分け」分業
第4形態の喜劇が悲劇に再転化することを回避する結果とられることの多い形態である。一方が買い物と後片付けをし、他方が調理をする、一方が洗濯し他方が干して取り込むといった、家事をより下位の作業工程に分解したうえでの分担形式(細かい分業)をとったり、一方が炊事、他方が掃除洗濯を担当するといった分担形式(大まか分業)をとったりする。後者の場合によく語られるのは、「それぞれが得意なものを分担する」という説明である。

ここでも第4形態が規準とした平等が分担の尺度となる。細かい分業については、異なる作業工程間での単位作業の定量を設定することの困難性が問題となる。何を調理するかを考えずに買い物はできないし、後片付けや次にとる食事を考えずにこれからの料理にとりかかることも少ない。干す順序を考えて洗濯し、着る時を考えて洗濯物を取り込む。家事を観念の上で一連の作業工程に分解して理解することはできるとしても、実際の家事において各作業工程は内的に相互連関しており、実際の作業上はこれを分解することはできない。
さらにまた、大まか分業についても、家事を構成する諸作業は相互に質の異なる作業であるという困難が存在する。将来、料理や掃除・洗濯を一手に行うロボットが作られたと想定してみればこのことは理解できる。そのプログラムの複雑性(というのかな)や量は異なるであろうし、実際の作業に要するエネルギーも異なるだろう。感情のある人間が、異なる作業間での平等分担を実現することは、そもそもこれら作業間を貫通する量的計測ができず、質的均衡を計ることができない(まぁ形容矛盾ですね)以上、不可能事といってよい。
この第5形態を現実に維持しているのは、一方で平等(量的でしかありえないとしても)の追求と、他方で絶えず現実に生じる不均衡を是正するためとして発揮される相手方への無定形の配慮である。

第6形態:やれる方がやる
現実の生活において第5形態がその限界に直面する確率は低くない。それは一方が疾病、事故などで家事を行えなくなる事態である。かかる事態に際会した場合、第5形態でも男女の共同生活は危機に瀕する。共同生活を解消するか、それとも危機克服のためあらたな形態を作るかの選択が迫られる。その結果としてとられるのが、「やるしかない家事はやれるほうがやる」という形態である。
この形態においても興味深く観察されるのは、この形態にある男性の多くは「よくそこまでやりますね」と感心される(または呆れられる)ことには慣れていても、時折「しかし、私のようにやっている男は少ない」という自負を漏らすことである。こうした自己表現は、この形態の女性の方もないことである。

*1 大槻文彦先生の『大言海』によると、本来は「家の内の後ろの方」、つまり「奥方に居る」人の意味とのことだから、この方たちはで自ら家事などはやらない。家事にかかわるとしても使用人等に指図することくらいで、自分で身体を使い、手を汚すことはない。だから庶民の中に本来の意味での奥さんは言う筈もないのだが、しかし万事上昇志向を良しとする人々としては、この形態においてはこう呼ぶのです。

*2 男性でも男子でも、漢字で書く男でもなくカタカナでオトコと記すとき、これは股の間にぶら下げているものに絶えず意識を配っている存在を意味する。



以上、昔に作った小話でした。