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2009年8月16日日曜日

いい加減でも



疲れているせいもあるのだろう、ただでさえ最後の詰めが甘い僕がいよいよ万事につけていい加減になっている。
しかし、やらないよりはマシかもしれないと居直る。やらない方がマシという判断も充分になりたつ筈なのに居直る。我ながら相当なものだと思う。居直る理由を考えた。

所詮は完全はありえない。どんな努力でも100%を満たすことはあり得ない。一生懸命にやった場合の方が、いい加減にやった場合よりも確実に良い成果を出すとは限らないだろう。やらない場合は確実に0%になると言ってよいだろう。しかし、一生懸命にやっても0%の場合、そこまで落ちなくても例えば10%にしかならない場合があるかもしれず、いい加減にやっても20%を達成する場合もあるかもしれない。

僕には一生懸命にやった場合の方が、いい加減にやった場合よりも常に確実に良い結果を出せる自信はない。受けた教育が悪かったと他人のせいにはしない。ただ率直に自分が現にもっている能力の貧しさを見つめる。

最近は、別の居直り理由もしばしば感じる。そのことをやった環境と機会、巡り合わせといったものだ。
小中学校教員の需要が少なかった「冬の時代」の学生たちは、猛烈に勉強をしていたが、バタバタと不合格になった。しかし、団塊世代が退職し初め、教員需要が爆発的に高まったここ数年の学生たちは、お辞儀のしかたに神経質になるくらいで次々に受かって行く。民間企業就職については、一昨年迄とは比べものにならない厳しさが今年の3〜4年生を襲っている。そして例えば僕の世代の大学生には、就職難はなかった。現に僕は4年生の秋になって、急に就職の必要に迫られ3社に書類を送り、2社から面接に来るようにとの通知を受けた。

個人の努力では如何ともしがたい、機会の巡り合わせ、運命とでも言いたくなるものを感じる。
僕の実父は、旧制高校の受験に二度失敗した。彼はその理由を、中学校最後の年に、彼の生みの母親が彼を生んた半年後に死亡していたことを知らされたことを挙げていた。「ショックで勉強が手につかなかった」と彼は言っていた。そうだろうと思う。しかし、この2年の遅れのおかげで彼は理工系の大学生として兵役を遅らせることができ、戦死しないで済んだ。

「結果オーライは親譲りか!」と息子からあざけられる。確かに機会に恵まれた人生だったと言うべきだろう。機会に恵まれていながら、碌な仕事をしてこなかったと非難されても仕方がない程なのだろうと思う。

他人、他の時代と比べることはしまいと思う。しかし、自分で選び取れない時代と環境の中で、100%の力を発揮しなかったからと自分を責めることは止めようと思う。いい加減でもやってきた、やっている、やっていく。先ずはこれで良い。あとは少しでも賢くなることくらいだろうと思うことにする。