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2008年12月8日月曜日

運動不足



今年の紅葉は冴えない。十月が暖たかったためだからと言うがどうだろうか。この時期に美しくなる学内の欅も、ただただ茶色にみすぼらしさを増している。クヌギや小楢の雑木林も今ひとつというところ。そのなかで、イチョウだけが一人燃え上がっている。

自転車で通勤しなくなったら、身体を使う機会がめっきり減った。
それなのに、この半年で平均体重は6kgおちた。さまざまなストレスと、睡眠不足が原因であることは分かっているので不安にはならない。しかし、体力の衰えが痛切に感じられ、つい今後の人生を考えてしまう。老人になったということだろう。

それにしても、鏡にうつる自分の顔の無内容さには今更ながらに愕然とする。暖かな人生を送ってきて中味が作られないままでいたのが、急に肉体の老化にぶつかったといったところか。今年の紅葉のありさまに似ている感じがする。 

2008年11月30日日曜日

ライトアップ



いつから始まったのか知らないが、暮れになるとそこらじゅうでライトアップ騒ぎが始まる。出所はおそらく西欧で、それをUSAの「田舎者根性」が真似、それが更にUSAのやることならなんでも結構と思う人が少なからずいるこの国にもはびこって来たのだろう。

耶蘇教の建物などには殊の外に興味があり、わざわざフランスやイタリアの田舎まで出かけたい僕なのだが、どうにもこのキリスト教に由来するらしいライトアップにはうんざりする。

夜の地球を人工衛星からとった世界地図がある。明るいのは先進国、アジア・アフリカの一部の大都市、そして日本海のイカ釣り漁船。一年の最後くらいは余計な明かりを消したらどうかと思う。

2008年11月19日水曜日

夕焼けには困る




今朝は雪ですっかり白くなった富士が、街中からもきれいに見えた。

16時過ぎ、南側にある給湯室に行って外を見ると、高層雲の畝が連なり、その上にこの季節らしいうろこ雲が薄らと広がってて何とも美しい。建物に邪魔されずに眺めることのできる場所を探してウロウロしているうちに、休み時間が終わってしまった。後ろ髪(しかない)を引かれる思いで研究室に戻る。

後で聞くとその後の時間の夕焼けが素晴らしかったと言う。残念至極。一回限りだから困る。夕焼けで人生について語るのは大袈裟かもしれない。しかし、二度と繰り返されることのない中で生きていることを改めて思う。繰り返しの効くものは人口の複製ばかりと言ってよい。複製文化のなかにどっぷり浸かっているためだろう、何を捨て何を選び採るか、この厳しさを夕焼け一つで思い知らされてしまう。

2008年11月17日月曜日

またまたヒラタケ



先週末、また木工芸作業室の外に置かれた朽木に、みごとなヒラタケが群生し始めているのを見つけた。土曜日曜と雨もあったので期待して、足取りも軽く行ってみると、立派に傘が広がっている。早速、少しをオリーブオイルでソテーして賞味した。出会った何人もに声をかけたが、誰一人乗ってこない。「既に先々週に同じものをおいしく食べなんともなかった」といっても、「**センセイだから当たらなかったのでしょう」と、まるで僕がスーパーマン的に強靭な消化器を持っているかのようなことまで言う。一体、何のためにキノコの図鑑があるのやら。

2008年11月4日火曜日

都内は自転車



今日は学園祭の後片付けとて大学は休み。それを利用して、内容は愚劣極まる私用のために新しい住まいから四谷まで約7kmを自転車で往復した。実に快適だった。スポーツジムの室内で自転車こぎをして金をとられることを考えれば、交通費以上のものをもうけた感じもする。

それにしても東京は色々な坂がある街であることを再発見した。地下鉄に乗れば、最短で片道190円、26分かかる所。ほぼ同じ時間で快適に走った。

2008年10月26日日曜日

ヒラタケ?



勤め先の木工作業室の外にある丸太に立派なキノコが生えて来た。
暫く成長を見ていると、僕にはどうしてもヒラタケに見えてくる。
食べたい。そのことを言うと、殆ど誰もが一歩退いて「毒じゃないですか」と言う。
しかし、余りに立派なので、僕はスーパーの袋一杯分を収穫して、調べることにした。



ところで僕はこの半年余りで、20年来保っていた平均体重56〜57kgを51kgを割るまで減らしてしまった。
おそらくはストレスによる減量で、けっして筋トレによるものではない。コレステロール値も激減した。良い気になっていると健康診断で「精密検査をしろ」という医師の指示が下された。この年齢になるとつい万一を考える。そして、それならば怪しげなキノコを食べるのも良いのではないかと飛躍してしまう。相変わらずのアホだと我ながら思う。

2008年10月8日水曜日

ゴミ



引っ越したアパートの間取りは、3LDKということになっている。友人に気軽に集まってもらえるようにするため、居間(LDK)部分の広いアパートにした。すると当然に、私たちが買える広さのアパートだと、他が狭くなる。連れの部屋も私の部屋も、まるで宇宙船のカプセルのように狭い。机と椅子、本棚、ベッドだけで室内は一杯になり、その合間を身体を横にしたり斜めにしたりして目的の所まで辿り着く。

本を減らさなくてはならない。
ある程度は減らさなくてはならないことは、引越前から分かっていた。しかし、飾りのために買った本はない。仕事のため、また何回か読むためのものが大部分だ。それでも減らさないことには、人間的生活ができる空間が作れない。辛いとしても、図書館に頼ることを基本にする程の大転換が必要になる。

しかし、引越で驚いたのは本ばかりではない。未だ使えるが陳腐化したために捨てざるを得ないものの膨大さだ。流行遅れになった衣類くらいならまだ分かる。例えば、カセットテープ。20代にはベートーヴェン、30代にはモーツァルト、バッハ、それ以降はバロックなどの古楽。段ボール箱二箱。次いでCD。これまた段ボール箱1箱半。おそらく今では、その大部分はインターネット上でアクセスできるだろうし、そうでなくても電子情報かしてとっておけば済むものだ。

幸いに私はLPは数枚しかもっていない。戦前にSPで集めていた人の悲哀は知っていたが、それほどに投資していなかった私自身についても同様のことが起こるとは、PCが生活の中に入って来ていながら分かっていなかった。

そのPCそのものについては、もっとグロテスクな問題がある。最初に買ったNECの98だったかが最も高かった。処理速度も遅く、容量も小さい。5インチのディスクに何枚記録したことだろう。それが3.5インチのディスクになり、そして今では小さなメモリーになっており、その容量も価格も指数関数的に安くなっている。当のPCの処理速度や容量は10年前とは比べ物にならない。

となると、以前のPCは未だ使えても、またサポートがあってもゴミになる。途上国に運ばれて使われるとか、内部に使われている希少金属を再利用しているから「PCを大量に廃棄し続ける都会は希少金属の大鉱山だ」なんて云う人がいるらしいが、どうもうさんくさい。必ず自然界に還元できずに残るゴミがある筈だ。

そんな大量生産・大量消費を余儀なくされている我々の生活。産業革命以前に戻るべきではないか等とふと思ったりしてしまう。