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2011年11月2日水曜日

努力しないための努力

人に読んでもらうために書いているこのブログには、他人の悪口や否定的に考えざるを得ないことは書かないように努めてきた。しかし、限度に来たようだ。嫌な辛いことが続く時でも、どこかに楽しいこと嬉しいことを見つける。そのための訓練だとも思ってきた。て書く。けられるあっても、ブログを止めるか迷っている。


後期の授業が10月から始まった。毎回初めの例で、学生に「今、重要だと思っている社会問題」「今後重要になると思われる社会問題」について書いてもらった。年々、書かれる内容がボロボロになって行く。今回は改めて、この下降傾斜が一段ときつくなったことを否応無しに感じさせられた。


「年金制度が変わるらしいが、そんな歳まで自分が生きられるか分からない。生きていたとしても、もらえるとは思えない。だから自分たちには関係ないことだと思う」、「世界の人口が70億人になって食料資源の枯渇や貧困や格差拡大が深刻になっているというけれど、自分たちはそんなに困っていない。あと30年くらいで100億人になるというけれど、その時にはどうなっているのか分からないのだから、いま騒いでも仕様がないと思う」、「若者の就職が厳しいのは、ずっとそうなのだから、アメリカやヨーロッパのように騒いでも仕方ないと思う。国の借金もひどいのだし、地震や原発のことがあったんだから、無駄づかいを止めるしかない」等々。


僕が接している学生の殆どは、今の社会が良いとも思っていない。そして、世の中が良くなって行くとは思っていない。そして、社会が人々の意識的な働きかけによって変わるとも思っていない。力を合わせて努力するなどということは、殆ど何か妄信にとり憑かれた狂信的信仰に似たものだと感じてかのいるようだ。少なくとも社会の改革に向かって自分たちが努力することはしたくない。満足もしていないが、変わらない以上、不満をかかえても「仕方ない」と達観し、専ら関心は現状への適応の中にのめりこんでいく。

中には「偉い人」や「ヒーロー」への期待をそれとなく口にする者もいる。しかし、それは少数で、大多数の関心は、希望や夢、期待を持たずにどうやって自分は生きて行くのか。他者と関わらず、他人に負担を与えず、毎日をともかく過ごして行くか。こんな辺りにあるようだ。

このひと月、定年を1年半後に控えているためか、僕は学生たちのこんな社会的構えのありようにいささか参ってしまっていた。