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2011年8月7日日曜日

人々の中の“多文化共生”

サボっていた「鼠君哀哭、髑髏隊」(09年4月7日に書きました)を仕上げるため、聴き取りの補足に松井田まで行った。新潟は三条在の友人T弁護士がクルマを出して下さり、事件に関係する場所の写真取材を手伝って下さった。


まず、2.26  事件で事故死した兵士の墓を高崎の竜広寺に調べに行った。そこで、日露戦争で捕虜となり、病死した若いロシア兵士の墓を見つけた。ロシア式とおぼしき立派な墓石である。15年戦争の間は破壊をおそれ地下に埋めて隠されていたという。


次いで安中に、“孤憤”の不戦平和の闘いを貫いた牧師柏木義円の教会を尋ねた。そして彼の墓を近くの西広寺に訪れた。牧師の墓が仏教の寺の墓地にあるのだ。


その後、中山三喜男さん(95歳)宅にお邪魔した。「髑髏隊」に関わり落ち穂拾い的に色々を伺っているうちに、思いもしなかったお話しがさらりと出た。柏木義円の墓が寺にあることに驚いたことを話していたときだろうか、「中山の墓も補陀寺に囲ってあるんよ。**のところ、**のところも一緒」とおっしゃる。何だと思って聞いていると、いずれも受洗した方のいる家庭の墓が、墓地の一角にまとめられているということらしい。


続けて驚く話しが出た。「わたしのお爺さんも、兄貴もキリスト教だった。関東大震災のとき、朝鮮人がたくさん殺された。兄貴は、“処分は俺たちに任せろ”って言って朝鮮人を引き受けて、おふくろは夜なべして日本の服を作ってやって、それに金をもたせてお寺にかくまってもらったのよ。補陀寺の坊さん。英語もできる人で、姉ちゃんも習いに行っていた。そういうことがあったのよ。俺は小学校の一年生だったけれど良ーく覚えている。でも、こういうことは誰にも言わない。言うことじゃない


そう、言いまわって誇ることではないかもしれない。しかし、記録が残されてよいことではないか。どうすれば良いのだろう。ガンガンに冷房の効いた電車の中で震えながら、そんなことを考えて帰宅した。