2008年6月28日土曜日

銘木なるもの

大勢のお客さんに来てもらえるように、大きなテーブルを作ろうとしている。きれいな天板を探しているのだが、木はそれぞれに個性があり、それぞれに美しく選ぶのに困る。そこで、一体この東京の木材市場にどんな木々が出回っているのかを、その概要だけでも知ろうと、延々と新木場まで行った。

まずは、到着するまでが大変だった。海なし県から都心を抜けて海まで出るのだから大変なのは仕方ないのだが、それにしても遠かった。次に呆れたのは、この世には銘木と称するそれ自体の希少価値で商品価格を張り合っている木材が山のようにあるという事実だった。ぼくは、ただ美しいこと、それが使われる場所に合っていること、使い方に調和していることばかりを考えていた。

それが、銘木店や材木店の多くでは、只々どでかいこと、姿形が奇抜で珍妙なこと、奇天烈であることだけが取り柄であるような木材が、「他には決してない」「こんなものは滅多に無い」という希少性だけが理由で驚くような値段を競い合っているのだ。それ自体は美しくも、調和がとれている訳でもないのに、一体、そんなものをどこで使うというのだろうかと思わずにいられないような珍材、奇材が威張りくさって鎮座ましましているのだ。

どんな木材でも、それは野山の大地、地面に生育していた樹々を人間が切り倒すか、それが生命を閉じることによって初めて人間が加工して利用する材料になったのものなのではないだろうか。生きていた樹々、その木目や歪みに刻まれた生育の印。それに接するだけでも利用する人間の気持ちは謙虚になり、今では材木と化した樹々を通して自然との営みに思いを馳せるのではないだろうか。銘木なる存在には、そうした謙虚さがどこにも感じられない。