About

2009年10月20日火曜日

貧しいのは所得だけか?

20日、長妻厚生労働相が日本の「相対的貧困率」が07年調査で15.7%だったと発表した。貧困の計り方には色々あるらしいが、相対的貧困率というのは、一人ひとりの所得(等価可処分所得)を順に並べて、ちょうど中間の額(今回は228万円)の半分に満たない人の割合がどのくらいかを示したもの。等価可処分所得は、税金などを引いた世帯の可処分所得を、世帯の人数の平方根で割った数値*。

OECD加盟30か国の08年報告書「2000年代の相対的貧困率」で日本は14.9%(04調査)だった。これは、メキシコ(18.4%)、のトルコ(17.5%)、米国(17.1%)に次いで下から第4位。低いのは、デンマーク(5.2%)、スウェーデン(5.3%)、子どもの貧困率は、01年に14.5%、04年に13.7%、今回14.2%。厚労相は「OECDの中でもワーストの範疇に入っており、ナショナルミニマム(国が保障する最低限度の生活)と連動して考えたい」と言っているそうだ。

怖いのは、まず貧富の格差が拡大していること。そして第二にそれがこの国では固定化する傾向があることが。「人生色々」とか言ってとぼけた首相がいたが、かなりの人の人生には一時的に貧乏な時期がありうる。それでもその後に貧乏から抜け出せれば救いがある。とぼけた首相の政府が進めた「構造改革」のもとで、一旦この貧困ラインに陥ってしまうと再び這い上がることが、実に難しくなった。貧富の格差は世代をこえて再生産され、全社会的な規模で犯罪や深刻な健康問題などを加速する方向で働くだろう。

「豊かになるか貧しくなるかは本人の努力次第だ」と言ってのける人もいる。しかし、雇用環境、どの地方、どういう家庭に生まれたかなどは本人の努力の圏外のことではないか。自己努力と自己責任が原則だというのは、勝者の台詞ではないのか。

ではどうするか。デンマークやスウェーデンにできることが日本ではできないのだろうか。メキシコ、トルコ、米国そして日本には、貧富の格差を緩和できない絶対的なその国ならではの要因があるのだろうか。経済のグローバルな関係が強まっている現在、こうした推測はなりたたないだろう。つまるところ政治の問題ではないのか。

現在の日本の政治は、貧しい人々の状況、その声は届いていないのだろうか。政治はすぐれて当事者自身が声を挙げることが決定的に重要である。しかし、それには時間とそれなりのカネがかかる。貧しい人々にはその余裕がない。加えて社会的蔑視や自己責任論による自縛から、貧しい人々自身が立ち上がるのは容易なことではない。



とすると仕方がないことなのか。僕はそうは思わない。

貧富の格差が拡がり固定されることは、回りまわって必ず、いまは総体的に恵まれた位置にいる僕たち自身を脅かす。最上層にいる人たちはどうか知らない。中層辺りにいる多くは、この下層の人たちの仕事に直接に支えられていることが多い。つまり日々の生活の中で接し、世話になっている。そうした人々が苦しく辛い思いでいることは、僕たちの生活や意識を間接的ではあれ必ず損なう。それに、すこし社会状況が変われば、いつ何時でも僕たちは下層に転落するところにいるのではないか。中層あたりといっても、例えば家族の1人が病気、それに加えてもう1人が倒れれば、大抵の家族はたちまち危機に直面するのではないか。

上層にいる人の多くの人生作戦は“食い逃げ”戦略だろう。アリバイ作り的な「社会貢献」活動をする人もいるだろうがあてにはならない。自分は中層にいると思っている人、社会問題について知り考え、動く余裕が若干でもあるこの層の人々がどうするか。これが今後のこの国の政治のあり方に及ぼす影響は小さくないと思う。

政権交代で政治は変わりうることを感じた人は少なくない。しかし、民主党の中には自民党「守旧派」よりも「構造改革」徹底派が少なからずいる。これからのこの国の政治をどう変えていくか。もし今後も貧富の格差が拡大固定傾向を辿るとしたら、それは中層にいる人々の社会的想像力と社会認識の貧しさ、その人たちの政治行動の貧しさによるといわざるを得ないことになると思う。

「情けは人のためならず」というではないか。上層を見るなとは言わない。しかし、自分たちよりより貧しく、困難を抱えている人たちと連帯することなしに、今のそこそこの生活すら保っていくことは難しいのではないだろうか。ましてこの貧富の格差を少しでも和らげたいと思うならば。