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2009年10月28日水曜日

どっちを向いている?



 岡田外相が今月23日の閣僚懇談会で「国会開会式での陛下のお言葉は、毎回同じ内容なのはいかがか。思いが少しは入ったお言葉をいただく工夫ができないか」などと見直しを提案したどうだ。読売新聞によると、天皇の「お言葉」なるものは、「お言葉は100~200字程度。内容も、国権の最高機関としての国会が国民の信託にこたえることへの期待で締めくくられるなど共通点が多い」だそうだ。
 
 しかし、この外相発言はおかしい。一体、国の最高法規である憲法によって「国政に関する権能を有しない」とされ、天皇の地位にある者としては「この憲法に定める国政に関する行為のみを行」うものと定められている(第4条)天皇が、憲法に何の定めもない国会開会式での「お言葉」なるものを行うこと自体が憲法上の根拠もあやしい。国事行為を列挙した第7条と第6条のどこに国会開会式に出て来て挨拶することが定められているというのか。

ある人は第7条第2号の国会召集の一環だといい、ある人は同第10号の「儀式を行ふこと」に含まれるといって合理化しようとする。ある人は、憲法に定められた国事行為と私的行為(散歩したり、風呂に入ったり)との間にある「天皇としての地位に伴う公的行為」だして、これを国がカバーすることは当然だと言う。しかし、こんな拡大解釈をしていると天皇の地位にいるのは生身の人間だから、歯止めが効かなくなる。現にそうなっているではないか。それが国民主権の原則にそった解釈だと言えるのか。

産經新聞社説(24日)は、「ときの情勢などに応じて違った工夫を加えられたお言葉が政治性を帯びないという保証はない」と言ってのけている。確かにその前例には事欠かない。特に前の昭和天皇は、日米安保絡みで政治的効果を狙ったとしか評しえない「お言葉」を繰り返していた。

外相は、このところ長期低落傾向にある天皇の人気を民主党が浮上さる狙いでこんな発言をしたのかもしれない。しかし、民主党といえばその党名は、民主主義の実現を党の基本目標にするところから来ているのではないのか。憲法上の根拠もない国会開会式での「お言葉」の社会的注目度を高めることは、そもまま天皇の政治的出番をふやすことに他ならない。

天皇が「お言葉」とかを述べるために上る階段はかなり蹴上がりが急に見える。どうせ言うなら「ご高齢でもあるし、そろそろお止めになったら」くらいのことを言うのが、民主党を名乗るからにはまともではないか。せめてもの救いは、「自分の発言で首相に迷惑をかけたことを申し訳なく思っている」ということか。これが「陛下に迷惑をかけた」だったらどうにもならない。