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2009年9月26日土曜日

別れ



連合いの父が亡くなった。92歳だった。哀しく辛い。

小学校しか出ず、二度も中国侵略戦争に駆り出された。奇跡的に帰還した後、以前に「小僧さんとして奉公」していたミシン製作の小さな工場で覚えたことを手がかりに、何もないところから浅草でミシン製作の小さな町工場を立ち上げた。まったく独学で図面描きを学び、幾つもの工業用ミシンを新たに考え出し、製作した。80歳近くまで働き、その後は好きだった織物をやろうと素人でも使える織り機を作り、喜んでもらおうと工夫を重ねていた。最大時で5〜6人を雇っていたらしいが、同業の中小企業に先駆けてきちんと週休制をとり、保険から年金の雇用者負担をすべてを行い(労基法や健康保険法、厚生年金法があっても中小企業の多くでは誤摩化されることが、むしろ大多数だったのがこの国の現実だった)、中小企業の退職金積立てを同業者に呼びかけたりした。全体として見れば幸せな人生だったのではないかと思う。

彼からは折りにふれ、これまでの多くの苦労や、沢山の悔しかったこと、様々な辛かった経験を聞くこともあった。しかし、ひどい目に遭わされた人たちを悪し様に言うこともなく、争った経験を語ることはなかった。僕が彼から話しを聞いたのは、彼が丁度いまの僕の年齢を過ぎてからだった。殆どは過ぎ去った日々の彼方にあり、自身の中で昇華されており、喜ばしく嬉しかった記憶の中に呑み込まれてしまっていたのかもしれない。しかし、ずっと後になって昔のこととして語られるのを聞く僕にも、さぞかしその時々の折りには端の者をやきもきさせることが少なくなかったのではないかと思われるものが少なからずあった。

上手く立ち回ろうという才覚もなく、他人の誤解や錯覚につけこむずる賢さとは縁がなかった。戦後復興と高度成長の時代という幸運な巡り会いもあったとしても、自身の真っ直ぐでひたむきな努力、ごまかしができない誠実な人柄、人の幸せを自らも喜ぶ純朴さがなかったら、破綻することなく続けられた町工場の経営も、少なくとも晩年の幸せはなかったのだろうと思う。

70歳を過ぎてから「戦友会」で中国を再訪し帰国した時には、中国の人々が豊かになっていることを我がことのように喜んで語ってくれた。また、上海のホテルで「こんなもの喰えるか!」と言った元「戦友」を、「お客さまになっていながら、何て事を言う奴だ! あんな奴とは二度と会わない」と怒り、その後は戦友会に行くことはなかった。

もっと聴きたいことが沢山にあった。
彼が若い時代を過ごした地域に、偶々いま僕たちが住み始めている。しかし、ここを訪れてもらう機会も遂に逸してしまった。