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2010年4月25日日曜日

反省なき自愛


暖かく穏やかなので文京区役所というバブリーな建物の展望台に登って眺めた。小石川植物園や上野の緑が見えるのが救いか。

降りてかつて集会やデモの集結点で行ったことのある礫川公園へ行った。公園を抜けて上に行くと東京都の戦没者慰霊園があった。人は少なく静かなのは良い。しかし、何やら空虚な空間。

中央に山本健吉が書いた碑文があり、「忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今の「生」もないことを」とある。休憩所で配られている立派なパンフレットには、「この霊苑は、さきの大戦で尊い犠牲となったすべてのみ霊をお慰めし」とある。しかしここで慰霊されているのは、日本人兵士だけであるようだ。入り口の方には「戦没地域標示盤」なるものが砲弾の薬莢を思わせるような二つの円筒の上にあり、そこには「太平洋戦争における主要地域別戦没者数(全国)」なるものが地図に刻み込まれている。日本軍によって殺害されたアジア太平洋各地の人々、そして今や「同盟国」とされている米国の軍民の数は書かれていない。

公園の端にある角田房子による「由来文」には、「改めて戦争とは何であったかを深く考えたい」とある。ところがパンフレットに記された「戦史年表」には、「第二次世界大戦(ドイツ・ポーランドに侵入)」と記されてはいても、「満州事変」は「柳条溝で鉄道爆破さる」とあり、「日本軍北部仏印進駐」、「太平洋戦争(ハワイ・真珠湾攻撃)」とある。日本が侵略したことを曖昧にしておいて、「戦争とは何であったかを深く考え」ようというのか。

浅草の母は、折に触れて「死んだら最初に会いたいのは栄一だよ」と言う。栄一郎さんは彼女の末弟で、士官学校を出てビルマ戦線に送られ、危険な斥候に出され20代半ばで戦死したという。「栄一がいてくれれば、、、あの子は本当に優しかったのよ」。戦争で殺された近親者への思いが、戦後の苦難な時代を生き抜くうえで多くの人の心の支えとなったことはあっただろう。しかし、それは戦死者がいたが故に戦後の生活があったことを意味しない。

死なずにすんだ筈の死、それが若い人の死であればなおさらにその不条理さに対する悔しさと悲しさは深く、容易に癒されない心の傷になるだろう。しかし、死者にたいする追慕の情が強いからといって、それが死の原因究明を遮断することに用いられるとしたら、それは犯罪というべきではないのか。

なんとも嫌な気分になった。