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2009年7月7日火曜日

嘘はコスト計算の外



「実直な方とお見受けした」。こう言ってくれた方がいた。こんな身に余る褒め言葉はない。
この間のいくつかの争いごとの中で、何度「正直すぎるのも良くないよ」「くそ真面目だから損をしている」と言われて来たことか。

言われた本人は、それでも時々は嘘もついているし、相手が勝手に錯覚するようなこともしているつもりでいる。とは言え、確かに積極的に嘘をつくことを避けていることは確かだ。第一に嘘をつくには労力がかかる。いつ何を誰に対してどうのように偽ったかを覚えていなくてはならない。複数の嘘を重ねる時には、その嘘が重なった時にも困らないようにに予め計算しておかなくてはならない。そんな労力を割くだけのエネルギーは費やしたくないし、その能力(おそらくは記憶力)が自分には著しく欠けていることは明らかだ。第二に、そのためだろうか嘘をつけば、いや嘘をつこうとするだけで、それは顔や態度に現れてしまう。日頃からの訓練が絶対的に足りない。

モンテーニュが言っているように、「経験上、すぐれた記憶は弱い判断力と結びつきやすい」のかどうかは分からない。しかし、弱い記憶力という「病気」があるために、「もっと悪い病気、すなわち野心を匡正する理由を見いだした」ことは確かにある。人が言う「ばか正直」であるためか、大もうけをしようとか、高い栄誉や評判をとろうといったことで心を燃え立たせたことはない。経済的にある程度の生活を送ることができたという幸運も幸いしていることも影響しているかもしれない。

また、カリエールだかが、「敵に対して嘘をつけば、敵と交渉することすらもできなくなる」とか書いていたことも焼き付いている。敵なのだから、どんな術策を労してもやっつければ良いというものではなく、利害対立する敵だからといって相手に打ち勝つことができない場合は少なくないこと、完全粉砕、完全絶滅はまずありえず、酷くやっつけられた敗者はむしろ恨みを一層強くもって復讐に燃えることの方が一般的だろう。

そこで必要になる交渉がなりたつ前提として信頼関係があり、そのためには利害が対立する敵からも「あいつは嘘はつかない」と、まずは交渉の相手にされることが前提となること。こんなカリエールの言葉に出会ったときは、若かった僕は実に驚いた。そしてかなり賢くなった気がした。

それでも、余り嘘をつかない、嘘をつけない流で、還暦を過ぎて思わぬ嫌なことをいくつもこなし、かなり疲れた。

本当は半年でもしばらく休みたい。せめてこの間の緊張をほぐし、<解決>まで頑張った自分を労りたい。そしてできることなら新しい生活への転換の一歩を踏み出したい。そのためにも、第二のテーマの場であるイタリアへ何としても行きたかった。しかし、それも思わぬ事故によってできなくなってしまった。その先いつ戻れるかとの見通しも立っていない。身が割かれるように辛い。

Fにいる友人に電話をすると、「辛いのは分かる。私も辛い。でも来ることをいつでも待っている。退職したらこちらで生活したらいい」とまで言ってくれた。やはり、嘘でかせぐよりは、こういう単純な慰めの言葉の方がありがたい。どうやら僕の場合は、嘘は費用対効果計算の外にある。