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2009年7月16日木曜日

夏、仕事、選挙

二年間待っていたイタリア行きが出来なくなったためか、やけになっている。昼休み今日は700m泳いだ。泳いだといっても、痩せ蛙流の平泳ぎでただただ漂っているという趣き。そんな気分でいるせいか、水泳らしきものでそれなりに元気になったためか、腹が立つことだ少し増えた。まずは、この夏に政権交代のかかった総選挙をやることについてである。



何でも<費用対便益>で物事の軽重をはかる考え方がある。今ではこれ以外の考え方はダサイと言わんばかりの流行ぶりである。
便益といっても、実のところ得られる経済的利益を念頭においている場合がほとんどだから、要するにこの考え方は「どれだけ出せばどれだけ儲かるか」の計算と変わらない。この世の中、経済的利益つまりオカネに換算できないものはいくらでもあるし、愛情や思いやり、平穏や安心、希望など人間の人生にとって欠かせない程に大切なものは、そのあらかたがオカネには換算できないのではなかろうか。

こんな計算にあくせくするのはアホらしいと思う。ところが当節は、「この人と結婚するとどのくらい得をするか」と、しっかり費用対便益計算をする男女が増えているらしい。少なくとも、そういう前提で作られた結婚斡旋ビジネスの広告も目につく。地獄の沙汰も金次第なのか、経済のグローバル化に並行して、この金銭換算コスパ思考がはびこっている。

そんな損得計算でいっても、本当に割に合っているのか不思議でならないのが、例えば、この国のこの蒸し暑いだけのこの季節にクーラーをガンガンつけて仕事をすることだ。確かに電力会社や清涼飲料水、ビール屋は儲かるのだろう。しかし、当の働く人にとって健康上良くないことは明らかだし、温暖化効果ガス排出を高めることも確かだろう。ドタマに来ている僕は、せめてタンクトップに短パン、草履という抗議スタイルで仕事をしたいのだが、まだその勇気もなく、我ながら情けない。それでも、いつかはどこかどでかい高層ビルのクーラーと自販機の元電源をぶっつぶしてやることはできないか等と、エコ・テロリストの夢を見たりしている。

ところで、このクソ暑いときに何と総選挙だそうだ。「夏休みではないか! そんな時に政権交代をかけた選挙か!?」 連中にとっては、ただ投票だけしてくれれば良いくらいのことなのだろう。何時やろうと選挙には変わりなく、そのタイミングは自分たちの都合、つまり損得勘定だけで考えれば良いのだろう。しかし、内実のあるまともな“主権者国民”の選択が行われるのには、それに相応しい“主権者国民”相互間のやり取りが前提となるのではないか? 確かに選挙は一人一人の投票で終わる。誰とも討論することなく、誰にも働きかけることなく、一人静かに投票しても、投票さえ終わればそれで各人は参政権を行使したことになり、選挙は成立したことになるのだろう。

だが選挙は同時に集合的な政治行為である。個々人が如何に心底からある候補者、ある政党を支持し、その選択が正しいと熱烈に確信していたとしても、それだけでは選挙結果に何の効果も生まない。選挙が“主権者国民”の選択である内実をもつためには、それに相応しい“主権者国民”相互間の政治討論が充分に保障されていなければならないのではないか。

夏、この蒸し蒸ししてクソ暑いこの国の夏が“主権者国民”相互の政治討論に相応しい時期なのか? わざわざ人々の生活が政治から遠ざかる時期まで待ったとすら勘ぐりたくなる。

もっとも、こんな憤慨は見当外れかもしれない。もっと“主権者国民”相互の政治討論がやりやすい春秋の時期ですら、殆どの“主権者国民”は、選挙をめぐる政治討論に割く時間等ない程の生活を送っている。長時間労働、残業なしには生活できない生活、自由な政治討論ができる場、空間の不在。「中立」と称して論点に迫らないマスメディア。

そして念の入ったことには、この国の選挙に関わる基本法律である公職選挙法は、その選挙運動の章を読めば誰でも気づくように、選挙にあたって一体“主権者国民”はどんな選挙運動ができるのかが分からない程に、禁止条項だらけだ。普段だったら個々人が一人でもできる行為の殆どが、禁止あるいは制限される。一言で言えば、“主権者国民”、あるいは市民の生活の中に自らが主体となって政治を語る時間も空間もないに等しいのが、わが国の現状だと思う。

夏休み総選挙のタイミングに関わっている民主党を含む連中の眼中には、“主権者国民”相互の政治討論をどうやって保障するかという根本問題が、まったく眼中にはないのだろう。これがこの国の民主主義の水準なのだから、先は遠い。

もっとも政権交代といっても、両党の間には基本問題での違いは少ないのだから、きちんと夏休みのある在外公館の連中も「まあ、少し夏休みを切り上げるのを早めておけば何とかなるだろう」とタカをくくっているのかもしれない。