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2010年1月13日水曜日

作り方か素材か

始めて作った味噌汁は、確か鰹節を削って出汁をとり、長ネギ、ワカメ、豆腐を具にする簡単なやつだった。出汁をとるのに夢中になり、味噌と豆腐のどちらを先にするかは覚えていない。出来上がった汁が旨ければ良いではないかと思っていた。そして若い僕には、この味噌汁はいつも旨かった。おそらく焼津の鰹節屋さんに懇意にしてもらっていた祖父経由で、良い鰹節が身近にあったのだろう。

その次に覚えているのは、高校の頃から山を歩くようになって覚えたもので、ジャガイモ、玉葱、若布、そして煮干し出汁で作ったものだ。今のようにインスタントの味噌汁はなかったから、こういうもちも良く運びやすい材料で作った。歩き回った後の味噌汁はいつでもおいしかった。

下宿をするようになってから、かの「婦人の友」の入門書(僕の親は正しい母親の姿は「婦人の友」に示されていると信じていた)で、里芋と長ネギという具の組合せを知った。この入門書が僕にとって最初の系統的な料理本だったためか、僕のレパートリーはなかなか広がらなかった。

しかし、根が無精で結果オーライを旨とするいい加減さによって、僕は1年とたたないうちに「素人料理は素材で9割決まる」と確信するようになり、作り方の方は適当派に転向した。これは実に精神衛生上も良く、ことある度に僕を落ち込みから救ってくれた。旨くない、しかしその原因は飽くまで作り方にではなく、素材の悪さにこそあるのだ。

この適当主義が根底から粉砕されたのは、結婚がきっかけだった。同じ素材で作っても連合いの作る料理の方が、明らかに旨いのだ。「結婚してから数年、呑むとお前さんは料理のことばかりを話していた」と友人から今でも言われる。余程ショックだったのだろう。

埼玉に住んでいた頃は、農協の直販場で様々な里芋を手に取ってじっくり見極めてから買うことができた。それが街中に越して来てからは出来なくなった。途端にこの二つの定番イモ味噌汁は旨くなくなった。作り方は変えていない。作り方が簡単な料理の場合は、やはり素材が決め手なのだろうか。

旨い芋類が手に入らない反動のようにこの1年凝っているのが豚肉の料理だ。幾駅も乗り継いで中国出身の人が買いにくる程の肉屋さんが近くにあるためだ。ところが、初めは「ここの肉は旨い」で済んでいたのが、「どうしたら上手に作れるか」に関心が移っている。やはり素材だけが決め手ではないと思うようになったのは、初級過程が終わりつつある証拠か。しかし、旨いものならいくらでも食べられるという時期は終わっている。あと何年間、「おいしい」と思って食べることができるのだろうか。焦る。

openDemocracyに劉曉波氏に関する論稿が出ていた。

http://www.opendemocracy.net/kerry-brown/china-and-liu-xiaobo-weakness-of-strength