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2009年5月30日土曜日

がんばり地獄



ある大労組の新聞を見ていたら、僕が尊敬している湯浅誠さんが次のように書いていた。

「自分より得しているように見える人間が許せず、他人がうまくいかないのを見ないと、じぶんのがんばりが報われたと思えない。
「自分はこんなに大変なんだから、他の奴らはもっと苦しんで当然だ」という感覚から、次つぎに「ずるい」人間を見つけていく”ずるさ狩り”」。

湯浅さんが書いているのは、編集者から聞いた今時の中学生の状況についての感想だ。彼は、こうしたことが生まれている状況を、”がんばり地獄”と名づけた。「がんばれば成功するはず」と言われて、塾や習い事に追われているが、そのゴールがあまりにも遠すぎて、自分がいったい何をがんばっているのか、見えなくなってしまっている状況。これが湯浅さんが名づけた”がんばり地獄”だ。

湯浅さんは、「子供の世界は大人社会の縮図」になってるという。同感だ。

「イジメがあっても「やぶへび」になるから言えない」「誰かがイジメられているのを見るのは落ち着かない。でも、「あの子は◎◎だから、イジメられて当然」と思えれば、良心の呵責はやわらぐ。その(イジメの)理由が、そんなに決定的なことなのかは、それほどじゅうようではない。場合によっては、本当かどうかさえ、どうでもいい」

こうした現象も、「逃げ場がない中で、それでも折り合いをつけていかないと精神のバランスが崩壊してしまう場合」になされる、「ごまかし」の回答ではないか、それは「なんとか自分が悩まなくてすむ」ためのものと指摘する。

彼はこうした現象を、社会の自己責任論の縮図と捉えている。なるほどそうだろう。
ぼくには、しかし自己責任論が前面に打ち出されるずっと以前から職場の至るところ、そして学校教育の場でも広められた業績評価主義がその底にがっしりと根付かされている点に原因を見てしまう。”頑張り地獄”は自己責任論の縮図であり、業績評価主義が生み出した深い傷だろうと思う。

「変な人」「偏った人」「境界にいる人」「困った人」といった人格障害がふえているのも根は同じなのではないか。