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2009年6月12日金曜日

形にはめるだけ



学内の緑がどんどん濃くなって行く。どうやらこれを見に行くため、その緑の下に立つために行くかのようなことが増えていて少しく憂鬱になっている。というのは、改めて以下のようなことを思い知らされる事があい続いたためだ。

「正解」があり、それを覚えれば点数になる。これが勉強だと思い込んで信じている学生が多い。従って、過去問なるものの傾向を知らせ、それに当てはまる「正解」を覚えるコツを伝えるのが上手な者が「良い教師」ということになる。

何も考えない。ただひたすらに覚える。「それならコンピューターの方がましではないか」と意地悪を言ってやると、「はい、自分たちもそう思います。違いますか」と来る。自らをまるで機械に貶めている。

その結果かどうか分からない。教室に入るなりエアコンをつける。設定温度を見ると23度。2階、3階に上るにもエレベーターを使うことを何とも思わない。4階から降りるのにも勿論エレベーター。”安楽の全体主義”にとっぷり浸かっている。
そして「環境にやさしい何タラは」というお勉強をする。「過去問」にない問題を出す教員は嫌われる。

「勉強」の成果を試験以外の場で生かすことは初めから考えていないか、現場で生かすとしてもそれは覚え込んだ「正解」にあてはめることでしかないと信じて疑っていない。「過去問」にはない事態に遭遇すると分からなくて当然、対処できないのは「習っていないのだから自分の責任ではない」という次第。

それだけなら未だマシだと言うことに最近気づいた。彼らの多くは、そういう「お勉強」で良い成績が取れる者は、「頭が良い」を信じて疑っていないことだ。この傾向は、上位の「成績の良い者」と下位の「成績が悪い者」との二つの端で高くなるようだ。その結果、前者には度し難い傲慢さが骨の髄までしみ込んだりする。これまでにも、「競争が厳しい入試なら、同じくらいの難しさの試験をやりなおせば殆どが入れ替わってしまう。東大なんてその典型だ」等と言うと、まるで自分の全人格を否定されたかのように、「絶対にそんなことはない」と顔色を変えて反論した人に何人も出会った。

後者の場合は、劣等感。最初から「どうせ自分のアタマは良くないんだから」と自己暗示にしっかりと囚われていたりする。「生まれつき良いアタマと悪いアタマがあるのかい。身長差だって2倍の差は例外で、1を標準にすれば大体の者が、0.9から1.1くらいに入ってしまうじゃあないか。そんな親不孝なことを言うものじゃあない」と古風な説教をしたくなる。自ら「どうせダメ」という重りをつけ、どこに行くにもそれを引きずっているから、あるはずの能力も発揮されず、出るはずの力もでない。そして言う;「センセイだってそう思っているでしょう?」。そう言われた僕には、この国に古来からある「先生と呼ばれる程の莫迦でなし、、、」とかいう言葉がなぜかよぎる。